2021年5月23日 聖霊降臨日・ペンテコステ(B年)

主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いが御心にかないますように

先週の日曜日は、神戸昇天教会の121回目の教会創立記念日でしたが、残念ながら2年連続でお祝いすることができませんでした。そして、本日の聖霊降臨日・ペンテコステも昨年同様に礼拝自粛となってしまいました。

キリスト教会の3大祝祭日は、イエス様がこの世にお生まれになったクリスマス、イエス様が神様の命に生まれたイースター、そして、イエス様の弟子たち、キリスト教会が生まれたペンテコステです。2000年前、イエス様はユダヤの国でお生まれになり、33年間生きられた後、無実の罪で十字架の上で殺されました。その日はユダヤ教では、ユダヤ人の先祖のイスラエル人が奴隷であったエジプトから脱出したことを祝う過越祭の翌日のことでした。そして、安息日を挟んだ週の初めの日、すなわち、現在の日曜日にイエス様は復活されたのです。その後、弟子たちは復活されたイエス様とお会いできたのですが、40日目にイエス様は天に帰られるという昇天の出来事が起こります。それから10日目、つまり50日目にイエス様の代わりに弟子たちに聖霊が降り、キリスト教会が誕生したということです。ちなみに、ペンテコステとは「50日目」を意味しています。

本日の福音書は、ヨハネによる福音書20章19節から23節までで、イエス様が復活された日の様子が記されていました。弟子たちは恐れのあまり、家中の鍵をかけ、息を殺して隠れ潜んでいましたが、そこへよみがえられたイエス様が現れ「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』」

聖霊とは何でしょうか?聖霊は「聖」である神様からの力であり、息や風のような目には見えないけれども感じることができるものを言います。けれども、具体的に神様の霊である聖霊を感じる体験をした人はそう多くはいませんし、また、しばしばそれは奇異な形で与えられることもあり、キリスト教会でも敬遠されがちです。しかし、聖霊は確かに存在しており、多くの場合、聖霊の降臨は静かに、しかし、確実に人の心の中にしみわたり、広がってその人を変えていくものなのです。

聖霊降臨の出来事を理解するために、葬儀を例にあげて考えてみましょう。通常、日本では家族が亡くなると葬儀を執り行います。そして、仏教では49日、神道では50日のお祭りがあるようです。日本のキリスト教会もこれに倣って、50日前後で逝去者記念式が行われています。けれども、単に日本的な習慣だけで50日祭を行っているのではなく、キリスト教会も50を意味するペンテコステを教会の大切なお祭りの一つとして守っています。50日祭は、逝去されて50日目に記念されるのですが、その日数は、愛する人を喪ったことを悼む時間であり、他方、亡くなられた方がどれほど大きな愛を私に与えてくださったのかということを思い起こし、それを自分の中に受け入れ、逝去者が与えてくれた愛を自分が生きるための準備の時間なのです。

聖霊降臨の出来事も同じく、イエス様を通して弟子たちに与えられた神様の愛を弟子たちが感じ、神様の愛の中に生きることを始めたのが、聖霊降臨日に起こった奇跡だったのです。そして、その奇跡はキリストに連なるキリスト教会の信仰者、一人ひとりにも同様に起こっています。教会で洗礼を受けたとき、毎回行われる礼拝のとき、また、ご家庭で祈っておられる時、神様の霊は私たちに注がれています。それは特別なことではなく、すがすがしく、心地よいものであり、心が静かに清められていく「神様の愛」なのです。聖霊は「神様の愛」に他なりません。神様の愛が私たちに注がれ、その愛を自分の命の中で生きる、それが聖霊降臨の真実なのです。神様はご自分の愛を、聖霊を通して私たちに与えてくださったその理由は、私たちが神様につながるためでした。私たちは、この神様への信仰によって神様と固く結ばれ、困難な時にも喜ぶことができるのです。

本日の福音書、ヨハネによる福音書の中で、イエス様は恐れに取りつかれている弟子たちを励ます愛の言葉を語られていますので、最後にそのみ言葉に心を傾けたいと思います。

「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。」ヨハネによる福音書20章19節