2021年5月16日 復活節第7主日・昇天後主日(B年)

主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように アーメン

3度目の緊急事態宣言が今月末まで延長することが発表されました。残念ながら感染者数は減少せず、コロナウイルス収束の兆しが見えません。長引くコロナ禍にあって誰もが不安と苛立ちを感じています。「なぜ、神様はこのような災いをくだされるのか!」怒りにも似た疑問、不信感が沸き起こってくる方も少なくないと思います。それは災害に遭われた方々が、いつの時代でも、どんな場所でも心に抱く一つの思いです。

本日の福音書、ヨハネによる福音書は、イエス様が十字架につけられる前夜、この世に残していく弟子たち、また私たちを含めた後の人々のために天の神様に祈ってくださった「とりなしの祈り」と呼ばれる聖書箇所でした。そこでイエス様はこう祈っておられます。「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」

イエス・キリストのイエスとは「主(神)は救い」という意味で、キリストは名前ではなく、神から選ばれた「油注がれた者」という意味の称号で、後に「救い主」の意味になりました。名は体を表すと言う言葉の通り、イエス様は、神様の救いを体現された方であったのです。そして、イエス様が行われた神の救いの業こそが、神様から離れた人々を神様と共に生きるように一つに結び合わせてくださったことなのです。それがイエス様の十字架の死とご復活でした。けれども、神様は私たちを守ってくださっているのでしょうか?こんな話があります。

あるところに災難の時には必ず神様が救ってくださると信じて疑わない男性がいました。ちょうど大きな台風がやって来て、その男の住む街は洪水の危険にさらされていました。街の人々に避難するように命令が出されました。男の家に隣家の人がやってきましたが、「神様が助けてくれるから人の助けはいらない」と断りました。しばらくして、見回りをしていた警察が早く避難するように声を掛けましたが、神様の助けを待つ男は、その言葉を拒否しました。その後、救助隊がやって来たときには、腰まで浸水していましたが、神様の助けを信じるあまり、話を聞こうとしませんでした。とうとうおぼれてしまった男性が目を開けると、そこには神様らしき方がいましたので、さっそく男は「なぜ、助けに来てくれなかったのか」と文句を言いました。そうすると神様は苦笑いをして「お前を助けに3度も言ったのに、すべて断ってしまうとは…」と言われました。

聖書の話に戻りましょう。本日の福音書にある通り、イエス様は神様に私たちを守ってくださいと祈ってくださいました。ですから、私たちは神様から守られているはずなのですが、私たちは周りにある悪いことにばかり目が行くあまり、神様からの守りや恵みに気が付いていないのではないでしょうか。

確かに悪い情報ばかりが聞こえてきますが、よく見ると悪いことばかりではありません。コロナ禍の影響で家族との時間が増えました。礼拝の自粛で1回の礼拝のありがたさや皆さんとの一期一会の大切を感じています。困難の中でも、神様は私たちにたくさんのお恵みを与えてくださっています。それに気付けるかどうかは、私たちの大きな転換点となります。なぜならば、不安や心配に圧し潰されそうになりながらも懸命に生きる弱い私に、強い神様という方が一緒にいてくださる、神様と私は一つなんだというみ守りが与えられていることに他ならないからです。ですから、どんな困難な時にも、私たちはこの神様への信仰によって喜ぶ者でありたいと思います。

最後に、福音書の中で、イエス様が私たちのために神様に祈ってくださったみ言葉にもう一度、心を傾けたいと思います。

「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」ヨハネによる福音書17章11節