2024年 2月

「さあ、我々は町と塔を築こう。塔の頂は天に届くようにして、名を上げよう。そして全地の面に散らされることのないようにしよう。」創世記11章4節

 ノアが呪った息子ハムの孫、ノアの玄孫にあたるニムロドは世界で最初の権力を持つ支配者、王様となり4つの王国を設立します。ちなみに、「ニムロド」と言う名前は「反逆」を意味しており、バベルの塔はその象徴と言えます。ニムロド王は、現代的に言えば科学万能の世界を作りたかったようで、自らが神となることを求めてバベルの塔の建設を始めます。このような神に取って代わろうとした支配者は歴史的にも数多くおりますが、彼らの願望の最後は皆、死と言う避けられない形で終わっています。近頃はインターネットを中心に「神対応」「神回」「神ゲー」など「神」と言う言葉が良く使用されており、神様の大安売り「神デフレ」の状態です。神様と言う言葉が、身近なものになることはある意味良いことなのですが、乱用すると価値が下がり、「ありがたさ」が低下してしまいます。もっとも人間が神様のことをどのように扱おうとも、神様が存在することはかわりませんが。さて、人の科学技術の粋を用いて神の地位まで登ろうとして建設された塔は、建築者の意思疎通ができなくなると言う致命的なことにより、断念せざるを得なくなります。これは現代でも「嫁と姑」「上司と部下」など年配者と若者などの間で起こる永遠のトラブルであると言えます。その原因は、お互いが自ら正しいと思う「神」となって、相手の話、相手の立場に立つことができないために起こってしまいます。これを「バベルの塔現象」とでも呼んでみましょうか。なぜならば、「バベル」とは「混乱」と言う意味だからです。大切なのは、自分が神となることではなく、相手を思いやる「神対応」なのかもしれません。最後になりましたが、私のコラムは今月で終わらせていただきます。読んでいただいた皆様には、心から感謝をいたします。

2024年 1月

ノアは酔いからさめると、末の息子が自分にしたことを知った。そこで彼はこう言った。「カナンは呪われ、兄弟の僕の僕となるように。」創世記9章24-25節

 洪水の後、ノアはブドウ酒を作って飲み、酔っぱらって裸で寝てしまいます。それを見つけた次男のカナンはすぐに二人の兄弟に知らせに行き、長男セムと三男ヤフェトは父親の面目を守ります。眠りから覚めた父親ノアは、次男のハムに向けて「兄弟のしもべとなるように」と呪いの言葉を口にしたのです。この呪いの言葉もヘンです。ハムはノアの次男であり、「末の息子」ではありません。しかも、「ハムは呪われよ」ではなく、ハムの末息子、孫のカナンを呪っています。これは明らかに10章の系図と関係しています。つまり、ノアの正統な子孫であるイスラエル民族が、ハムの子孫である「カナン人」によって苦しめられることが、後に起こるために、イエスラエル民族からしてみれば敵である「カナン人」の先祖ハムの失態を機に、偉大なご先祖のノアから呪われていたと言うシナリオが考えられます。そうであれば、これは「言いがかり」だとも思えます。歴史を遡って「なぜ、カナン人はイスラエル人の敵なのか?」との問いに対して「先祖のハムが悪いことをしたからだ」と結論づけたのかもしれません。現実の矛盾や謎に対する答えを聖典である聖書に求めたのでしょうが、それで納得できたのでしょうか?むしろ、答えよりもヒントをもらって自らが考え、例え解決できなくても問題に挑戦することが重要だと思います。これもまた聖書の面白さかもしれません。

2023年12月

「雲に虹が現れるとき、私はそれを見て、神と地上のすべての肉なるあらゆる生き物との永遠の契約を思い起こす。」創世記9章11節

 神様は悪い行いばかりをする人類を滅ぼすために、ノアとその家族、選ばれた動物たちをのぞく、すべてのものを水の中に沈めてしまわれました。その後、神様は生き残ったノアと家族に対して二度と洪水を起こして生き物を殺さないと約束し、そのしるしとして「虹」を空にかけられました。こうして、「虹」は神様と人類の平和・和解の象徴となったのです。話は変わりますが、「虹の橋(Rainbow Bridge)」と題する詩があります。作者を名乗る人が複数いるそうですが、ペットの死後の世界を表現しており、ペットロスの方の心を癒してくれる詩です。「この世を去ったペットたちは、天国の手前の緑の草原に行く。食べ物も水も用意された暖かい場所で、老いや病気から回復した元気な体で仲間と楽しく遊び回る。しかしたった一つ気がかりなのが、残してきた大好きな飼い主のことである。一匹のペットの目に、草原に向かってくる人影が映る。懐かしいその姿を認めるなり、そのペットは喜びにうち震え、仲間から離れて全力で駆けていきその人に飛びついて顔中にキスをする。あなた(死んでしまった飼い主)は、こうしてペットと再会し、一緒に虹の橋を渡っていく。」                                     虹は、この世と異世界をつなぐ「橋」として多くの人は考えているようです。神様は人類を憎んでいるのではなく、愛しておられるのであり、神様と人間を繋ぐ愛のしるしが「虹」と言う名前の橋なのです。雨上がりに天を見上げ、虹を見つけると何だか心が嬉しくなってくるのは、そんな神様の私たちへの愛情のしるしを発見したからではないでしょうか。

2023年11月

「命のある動き回るものはすべて、あなたがたの食物となる。あなたがたに与えた青草と同じように、私はこれらすべてをあなたがたに与えた。ただ、肉はその命である血と一緒に食べてはならない。」創世記9章3、4節

 食欲の秋です。私は夏バテ知らずで秋を迎えましたので、育ち盛りをはるかに過ぎてしまった今でも食欲は旺盛です。「美味しく食べられることは健康な証拠」と言われていますが、食べ物があっても食べられない人や食べたくても食べ物がない人のために祈りつつ、神様に感謝して食事をいただいています。神様が人間を創造されたとき、神様は人に木の実と野菜を食物として与えられたとあります(創世記1章29-30節)。つまり、最初、人間はベジタリアンであったと言うことになります。その後、神様は動物の肉を食べることを許してくださいました。神様に感謝です。けれども、神様は血抜きしていない肉は食べてはならないと命じられています。その理由は「血は命である」からです。律法にもそのことは厳しく定められています(申命記12章)が、それは医療行為としての「輸血」を拒むことを意味していません。旧約聖書の時代的な背景を無視して文字だけを現代に当てはめることはとても危険なことです。確かに「血」は「命」を表していますが、血だけが「命」ではないのです。血だけでなく、骨も肉も、心も、すべてが「命」なのであり、どれか一部分だけが「命」ではありません。神様は人などの生物をお創りになったときに命を与えられました。だから、命は神様に属しており、粗末に扱ってはならないものなのです。だから、私たちの命を支えてくれる命ある食べ物に感謝していただきたいと思います。

2023年10月

「人のゆえに地を呪うことはもう二度としない。人が心に計ることは、幼い時から悪いからだ。この度起こしたような、命あるものをすべて打ち滅ぼすことはもう二度としない。」創世記8章21節

 ノアの箱舟物語では、神様は人の悪行に対する報いとして洪水を起し、人類を滅ぼされたと言う物語ですが、そんな人間の悪行は、幼い時から悪い考えが芽生えていると神様は理解されているようです。そもそも人を土の塵、土ですらない無価値なものを集めて人間に形作ったのですから、素材が悪かったのかもしれません。けれども、神様はそんな無価値な存在に神様の息吹「命の息」を吹き込むことによって価値あるものとされたのです。しかし、神様は人間に自由意思を与えてしまいました。人間がロボットであれば、神様の言う通りのことをしていたでしょうが、人間に与えられたこの自由意思が良くなかった。エゴ。自分さえ良ければ他は関係ないと言う自己中心的な考え方が人間の心の闇を広げていきました。いわゆる「自分ファースト」です。確かにイエス様は「隣人を自分のように愛しなさい」と教えられておられます。けれども、それは自分を愛することが他者を愛することに繋がって行くと言うことであり、自分への愛情で終わってしまってはならないと言うことでもあります。神様は洪水で人を滅ぼすことは2度としないと言われており、近年多発する、多くの尊い人命を一瞬で奪う大災害は、神様が意図した人類への裁きではないことは明らかです。しかし、大災害が起こるたびに神様を恨むのではなく、我々の心の闇を見つめ、ノアの箱舟の教訓を生かせるような人類でありたいものです。

2023年9月

「ノアが601歳の最初の月、その月の一日に、地上の水は乾いた。ノアが箱舟の覆いを取り外して見ると、地の面は乾いていた。」創世記8章13節

 今月、9月は敬老感謝の日があるために、ご高齢の方々の長寿をお祝いする機会がいろいろな場所、施設で行われます。教会でも日曜日に、神様から長寿の恵みをいただいている方々を覚え、感謝の祈りをささげ、共に喜びを分かち合います。世界的にも長寿国日本となりましたが、元気で生活されている高齢者の方はそう多くはないとの指摘もあり、毎年、「長生きする」ことの意味を考えさせられます。さて、旧約聖書に登場してくる人々は超高齢者ばかりで、アダム930歳、ノア950歳、アブラハム175歳、イサク180歳、ヤコブ147歳とスーパー高齢者だらけです。特にノアは950歳と言う年齢でほぼ1世紀を生きています。もちろん、この年齢は現代の数え方とは異なるもので、実際の時間より多く数えているようです。諸説ありますが、一人ではなく、一家族の年数とか、現在の1年の間に10から20歳ぐらいの年齢をとる数え方などが言われています。「長寿」は神様からの最高の恵みをいただいて生きている素晴らしいことであると言う信仰があり、人の生死も神様のご意思の中にあると考えられていたからです。「尊厳死」と言う言葉が言われて久しく時が経ちますが、まだ多くの人は死を「縁起でもないもの」として避けています。けれども、「死」、自分の終わりを考えることによって、今をより充実して生きることできるとしたらどうでしょう。長寿が神様からのプレゼントと喜べる思いは、自分の命は限りある命だと言うところから生じてくるのです。生きるために「死」を見つめることは必要なことだと思います。

2023年8月

「夕暮れ時に、鳩は彼のもとに帰って来た。すると、鳩はオリーブの若葉をくちばしにくわえていた。そこでノアは水が地上から引いたことを知った。」創世記8章11節

 悪いことばかり行う人間たちに神さまは、洪水を起こしました。40日間、昼夜を問わず降り注いだ雨も止み、生き残ったノアとその家族、動物たちを乗せた箱舟から、ノアは水が引いたかどうかをカラスとハトを使って調べます。カラスでは良い知らせは得られませんでしたが、ハトはオリーブの若枝を口にくわえて箱舟に帰って来ます。ノアは近くにオリーブの木が生えてきていることを知り、箱舟生活の終わりが近いことを理解しました。この物語は、ハトとオリーブが平和の象徴とされている理由に挙げられています。つまり、神の怒りが収まり、平和が到来したことを鳩とオリーブが伝えたためでした。また、新約聖書では、イエスさまが洗礼を受けたとき「神の霊が鳩のように(マタイ3:16)」注がれたとあります。神さまから人類に与えられる「平和」を鳩が意味しています。さらに、オリーブはギリシャ神話で平和の女神エイレーネーが持っています。しかし、平和のシンボルとして世界中に広めたのは、1849年にパリで開催された「世界平和評議会」のポスターとしてパブロ・ピカソが「ハト」を画いたためでした。人類の歴史の中で平和な時代はほとんどないと言われるほど人は互いに争い続けています。神さまはそんな人類に平和の象徴であるハトを人が目にする多くの場所に送っているように思われます。

2023年7月

「四十日たって、ノアは自分が造った箱舟の窓を開け、烏(カラス)を放した。烏は飛び立ったが、地上の水が乾くまで、行ったり来たりした。」創世記8章6、7節

 天の扉が閉じられて雨は止み、世界中を覆いつくして水は次第に引いていきました。ノアとその家族、そして、世界中から選ばれたツガイの動物たちを乗せた箱舟は長い旅を終え、アララト山頂に着地しました。けれども、まだ完全に水が引いたわけではありません。そこでノアは陸地が現れたかどうかを調査するために「カラス」を放しました。なぜ、カラスだったのでしょうか?カラスって集団でゴミ箱をあさる薄気味悪いイメージがありますよね。「烏合(うごう)の衆」と言う言葉があります。カラスが無秩序に集まってカァカァと鳴いてる姿から「規律も統制もなく、ただ寄り集まっているだけの集団。秩序のない人々の集まりや軍勢をいう。(goo辞書より)」。また、カラスは、口うるさい人や意地汚い人に例えられます。さらに、全身が黒いので悪い印象が強いのかもしれません。他方「カラス」は神さまの使者とも言われていますし、サッカー日本代表のロゴマークは「ヤタガラス」で、正しい方向を指し示してくれると言う意味だそうです。黒猫もそうかもしれませんが、人によって「不吉」と言われたり、「幸運」と呼ばれたりしています。さて、ノアは他の鳥よりも飛行能力の優れたカラスを選んだようです。彼はカラスの外見ではなく、能力でこの重要な役目に選出したのでした。残念ながら陸地は見つからず、箱舟に戻ってきてしまいましたが、立派にカラスはその役目を果たしたのです。目利きのリーダーに自分の能力を買われたカラスはさぞかしうれしかったことでしょう。神さまも人を見た目で判断しません。神さまは人の心を見られるからです。人知れず、一生懸命に生きている人を神さまは忘れることも見落とすこともなく、いつもみ守っていてくださいます。感謝

2023年6月

神は、ノアと彼と一緒に箱舟にいたすべての獣、すべての家畜を忘れることなく、地上に風を送られたので、水の勢いは収まった。創世記8章1節

 雨の季節です。シトシトと振ってくれるのは良いのですが、バケツをひっくり返したように降る豪雨や台風の雨音や水煙の様子は「この雨、止むんだろうか」と不安にさせます。四十日間、ノアの箱舟の中にいた人や動物たちもそんな恐怖を感じていたのかもしれません。けれども、神さまはそんな彼らのことを「忘れてはいなかった」と聖書には記されています。大きな災いが降りかかってきたとき、誰でも神さまから見放されてしまったと感じてしまいますが、実はそうではありません。じっと耐え忍んでいる箱舟の生き物たちのために終わりを告げられる「風」を神さまは送られました。「風」と言う言葉は、聖霊なる神さまを現す言葉で、神の力によって天の窓が閉められ、雨は止みました。さらに、地上に満ちていた水は徐々に引き始めていきます。まさに「新しい時代の大地」が顔を出し、神さまが吹かせた新しい風によって始まろうとしていました。大雨や台風が来ない場所がないように、つらい時は誰にでもあります。そんな時は何もできなくてじっと我慢するしかありません。そんな忍耐している人に神さまは、私たちが望んでいた方法ではないかもしれませんが、しかし、必ず手を差し伸べてくださいます。そして、ノアたちが雨を耐え忍んだその先に新しい大地があったように、私たちにも新しい場所が用意されています。もちろん、そこは自分にとって都合が良い場所かどうかはわかりません。しかし、自分の力で作り出すことのできる場所であるとすればどうでしょう。すべてが壊され、流されたことを惜しむより、新しく作り出す可能性に目を向けられるなら、そこは「新天地」になります。そして、神さまはそんなあなたの傍らでいつも見守ってくださっています。

2023年5月

「主は、地上のすべての生き物を、人をはじめ、家畜、這うもの、空の鳥に至るまで消し去られた。彼らは地から消し去られ、ただノアと、彼と一緒に箱舟にいたものだけが残った。」創世記7章23節

 ノアの洪水物語を読むとき、「神さまはなんて残酷なことをされるのか!」との怒りの感情を禁じ得ない方もあるかもしれません。正義の味方であるはずの神さまが、生物抹殺計画を実行されたことに怒りを感じます。確かに人間は悪を行ったのかもしれませんが、何もすべての命を奪い去る必要はなかったのではないか、そう思います。他方、神さまに選ばれ、地上に残されたノアの家族は幸いだったのかと言うとそうでもないような気します。戦争や災害に遭い、九死に一生を得た生存者は、生きていることを喜ぶことができる人ばかりではありません。阪神淡路大震災や東日本大震災の被災者の方々の言葉は、命は助かったけれども、愛する家族や友人・知人、近所の人たちの命が失われた理由を探し、自分は何のために生き残ったのかと答えを探しておられる方もいました。つまり、生き残った者も、生き残ったがゆえに苦しみ、生きる意味や目的を見出すために生き続けなければならないと言う十字架を背負わなければならなくなるのです。どんなに望んでも生きられないことも悲しみと共に生き続けなければならないことも共に残酷なことです。けれども、私たちの命に意味を見出すことは、人間の生涯をかけた目標ではないでしょうか。その答えは誰も持っていません。自分だけが見出せるかもしれません。そして、そのヒントは生きとし生ける者の命を創られた神さまの中にあると聖書は教えてくれています。

2023年4月

また、あらゆる生き物、すべての肉なるものの中から、二匹ずつを箱舟に入れなさい。あなたと共に生きるためである。それらは雄と雌でなければならない。創世記6章19節

 神様は人間たちが悪を行うのを見て、後悔し、人類をすべて滅ぼそうと決断されました。しかし、神様はノアとその家族、そして、すべての生き物を雄雌1匹ずつ、箱舟の中に入れて命を救われました。カナダとアメリカの大学が行った研究によりますと地球上の生物は約870万種にも及ぶと報告されています。それほどの生物が、巨大とはいえ箱舟に入りきるとは、、、とても大変だったと思います。そもそも雄か雌か判断できない生物や性別が変わってしまう生物などがいますので、「性別」それ自体が明確ではありません。さらに、子孫を増やすために必要な「雄雌」と言う意味なのでしょうが、せっかく洪水を生き残っても、現代で絶滅してしまっては残念としか言いようがありません。なぜ、神様は生き物をノアの箱舟に入れたのかと言えば、それは「共に生きるため」でったと聖書は語ります。共に生きる。それはお互いに必要な、なくてはならない存在として共存することに他なりません。人間だけが生きられる世界ではなく、生きているすべての命にとって「生きられる世界」が大切なのではないでしょうか。神様はそんな世界を最初に創られ、人間たちにそれを託したことを忘れないようにしたいものです。

2023年3月

神はノアに言われた。「すべての肉なるものの終わりが、私の前に来ている。彼らのゆえに地は暴虐で満ちているからである。今こそ、私は地と共に彼らを滅ぼす。」創世記6章13節

 ロシアのウクライナ攻撃が始まって1年が経過しました。いつ終わるのか、先が見えない泥沼の戦争が続いています。2018年にイスタンブールで開催された東方教会の主教会議でウクライナ正教会が、ロシア正教会からの独立することが承認されました。この決議にロシア正教会は猛反発し、コンスタンチノープル総主教庁との関係を断絶しました。この後、ロシアはウクライナに侵攻を開始しますが、正教会内部での分裂が最終的なウクライナとの戦争に追い込んでいったようです。同じ神を信じ、クリスチャンでありながら政治的な分裂を食い止め、和解できなかったことは大変残念なことです。その結果を一番悲しんでおられるのは、神様ご自身ではないでしょうか。ここにも「どうしようもない」とあきらめてしまった心の闇に打ち勝てない人の弱さを感じます。けれども、希望を持っている人々は信じます。必ず、戦争は終わり、再び平和な日がやってくると。そして、今は何もできなくても、その時、まことの平和のために世界中の人々が手を差し伸べることを。

2023年2月

主は言われた。「わたしは、創造した人を地の面から消し去る。人をはじめとして、家畜、這うもの、空の鳥までも。私はこれらを造ったことを悔やむ。」      創世記6章7節

 ノアの箱舟物語では、人間だけでなく、すべての生き物が洪水で死んでしまいます。その原因が、人間の悪行のためであるならば、動物たちはその犠牲になったと言うことになりますので、動物からすれば納得できない話です。実際に地球温暖化は、人類が文明の発展のために作り出した公害と言う環境破壊が原因だと言われています。昨今の災害レベルの猛暑や寒気、特に台風、豪雨、積雪などの災害は人間が作り出したことになります。また、2011年に福島で起こった原発事故は、放射の汚染によってジブリ映画に登場する「フカイ」が現実に誕生したと言う恐怖を教えていますが、それでも原子力発電に頼らなければならないのか疑問を投げかけています。ノアの箱舟物語は現代に生きる私たちに何を教えようとしているのでしょうか?情報化社会で多過ぎる情報に溺れ、多くの人が、何が真実なのかわからなくなっています。スマホや電波がないと不安になります。街にはたくさんの人がいますが、老若男女を問わず孤立を感じ、自死や孤独死に至らしめます。物語の中で命の象徴は、神様が選んだ「ノア」と言う人物でした。ここに希望を見出すことができるのです。神様は最悪の状況でも必ず逃れる道を備えていてくださり、私たちがその道を選択することを期待して待っておられるのです。

2023年1月

「主は、地上に人の悪がはびこり、その心に計ることが常に悪に傾くのを見て、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。」創世記6章5・6節

 神様は人を創られたのですが、奴隷やロボットのように神様の言うことだけを忠実に従う者として人間をお創りにはなられませんでした。神様は人間に「意思」を与え、人は自分で考えて行動する「自由」を与えられました。しかし、人はそれを自分のためだけに悪用したため、争いが起き、人類の「悪」が増えていきました。人間も含めて、神様がお創りになったすべてのものは「極めて良かった」世界でした。けれども、人間が自由をはき違えたため、神様の良い世界に人の悪がはびこって行ったのです。そして、これを見た神様は後悔されました。余談ですが、この聖書の個所を読むたびに「神様でも後悔するんだ~」と思い、チョット言い方が悪いかもしれませんが、人間らしい神様がとても好きです。けれども、この後、神様が行われる「洪水」の災いは阪神淡路や東日本の大震災など大きな災害で愛する人たちを失った人たちにとっては、とてもつらい現実を思い起こさせる物語になると思います。けれども、神様は人々が苦しむことを良しとはされない方です。なぜならば、神様が人類の悪に心を痛められるのは、ご自分が造られた人間たちを愛されておられるからに他ならないからです。いつも痛みをもってこの物語を読みますが、神様は必ず最後には、その愛情で私たちを救ってくださいます。

2022年12月

「再び、アダムは妻を知った。彼女は男の子を産み、セトと名付けた。カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授けられたからである。セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。」創世記4章25~26節

 神様が創られた最初の人類アダムとエバ。その息子たちの兄カインは弟アベルを殺したので両親から逃げてエデンの園の東に住み、一族を作っていきました。一方、アダムとエバには、男の子が生まれ、その後、孫が生まれました。何年たったのかはわかりませんが、聖書には、その時代に「主の名を呼び始めた」とあります。キリスト教会では、人が一人で神様に祈りをささげることに対して、数人が集まって神様に祈りをささげることを「礼拝(れいはい)」と言います。アダムの孫の時代には、みんなで集まって神様にお祈りを捧げる「礼拝」が始まったようです。キリスト教は個人で神様とつながるだけではなく、神を信じる人たちとの交わりがあります。それはお互いに祈りによって支え合い、世の中の苦しみを共に担い、神様の恵みを共に分ちあうために必要な信仰の共同体なのです。神様を信じるクリスチャンの人たちは利害関係や血縁ではなく、神様への信仰によって結び合わされ、「神の家族」として強められるのです。教会では兄弟姉妹と呼び合うのは、神様の家族であるからです。そして、神様の家族たちは、いつでもあなたを歓迎しています。

2022年11月

「主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。」創世記4章15節

 聖書によりますと神様が創造した人類最初の殺人は、アダムとエバの子どもたち、兄が弟を殺してしまったと聖書に記されています。そのことが神様に露見した後、兄はその罪の深さにさいなまれます。そして、出会った人々から「弟殺し」として非難され、殺されてしまうかもしれないと恐れています。ここで誰もが疑問に思います。「神様が創られたアダムとエバ以外にも人がいるの?」そんな聖書の矛盾はおかまいなく、神様は兄カインの恐れを取り除く言葉をかけられるのです。「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」確かにいじめは犯罪です。決してあってはならないことです。けれども、いじめが発覚した後、加害者が多くの人々から誹謗中傷を受けることもまた正義に隠れた「いじめ」ではないでしょうか。神様はそんなことがおこらないように兄カインに一つの印をつけました。それは悔い改めたカインにとって更生するためのチャンスとなるものだったのです。神様との約束が守れなかったアダムとエバがエデンの園から追放された時、神様は2人に皮の服を着せたようにカインにも身を守る印を与えてくださいました。人に罪を犯すことは悪いことですが、犯した罪を悔い改める者にも再出発の機会は与えられるべきだと思います。人は大小の違いはありますが、間違いを犯すことがあります。しかし、それでもそこからやり直せることが大切なのです。神様は間違いをした人でも反省した人には救いの手を差し伸べてくださる方なのです。そして、それが「ゆるし」なのです。

2022年10月

主はカインに言われた。「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」彼は言った。「知りません。私は弟の番人でしょうか。」創世記4章9節

 先日、あるキリスト教系団体の方が、活動に協力してほしいと依頼に来られたのですが、そのときに「前の牧師さんとは親しくさせていただいたんですよ~」と言われました。しかし、その方、前の牧師さんの名前が思い出せませんでした。私は思わず「本当に親しかったの?」と不信感を抱いてしまいました。良いウソ。相手を傷つけないための優しさから出たウソは、悪いとは思いませんが、どうせウソをつくのならわからないようにウソをつくべきでしょう。けれども、遅かれ早かれウソはだいたいわかってしまうものです。それが神様なら間違いなくウソはお見通しです。あるとき、兄カインが弟アベルを殺してしまうと言う殺人事件が起きました。そのことで兄アベルはウソをつきましたが、すぐに神様に見破られてしまいます。それで良かったと思います。もしも、最初についたウソがバレなければ、そのウソをごまかすために次々とウソをつかなくてはならなくなっていく「ウソのスパイラル」にはまっていくからです。だから、ウソは良くないのかもしれませんね。特に神様と自分に対してウソをつくことは、いつも自分が追い込まれ、行き詰まりの結果をもたらせるからです。

2022年9月

「主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。」創世記4章4~5節

 人類最初の人アダムとエバは、ヘビの誘惑に負け、神様との約束を破って禁止されていた善悪の知識を知る木の実を食べ、エデンの園を追放されました。その後、2人には息子たちが誕生します。兄カインは野菜を作る農民となり、弟アベルは羊の飼育を営んでいました。いつも彼らは神様に収穫された野菜や動物を捧げていました。ある時、神様は弟の捧げ物を受け入れられたのに、兄の捧げ物を受け取られませんでした。その理由は記されていません。きっと弟は良い捧げ物であったけれど、兄の捧げ物は悪い物だったのかもしれません。けれども、兄はこの神様の態度に対して弟に嫉妬し、ついには殺してしまいます。人類最初の殺人は兄弟ゲンカが原因だったのです。兄弟は最も近い肉親であるがゆえに憧れや嫉妬の対象となりやすい存在でもあります。子どもの頃は兄弟ゲンカですまされたことでも、大人になると骨肉の争いとなり、絶縁することも珍しくありません。その理由の大半は遺産相続などの金銭トラブルではないでしょうか。そうなると関係の修復はかなり困難ですが、チャンスがないわけではありません。ある人は自分の死期を知ったとき、人生の精算をしたいと今まで疎遠になっていた兄弟に謝罪し、心晴れやかにこの世を去って行かれました。謝罪後に、お互いが関係を修復したいと思っていたことを知り、もっと早く和解すれば良かったと言われていたことを思い出します。子どもの時には素直に言えた「ごめんなさい」も、大人になるとどうしても言えなくなってしまいます。けれども、自らの過ちを認め、「ごめんなさい」と言える大人は、誰よりも勇気のある人だと思います。やってみると意外と自分の心がスッキリとして軽くなるものです。

2022年8月

「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」創世記3章21節

 人類最初の人アダム(アダムは人と言う名前)は、最初の女性エバと共にエデンの園と言う神の楽園で仲良く生活していました。ある日、賢いヘビがやって来て、2人が神様から食べてはいけないと言われていた木の実を指して「目が開け、神のように善悪を知るものとなる」と誘惑しました。それゆえ、これ以降ヘビは人類に嫌われるようになってしまいます。アダムとエバは、善悪がわかる神様のような存在になりたいと願って木の実を食べたのですが、結局彼らがわかったことは、自分たちが神様との約束を破って悪いことを行ってしまったということでした。残念ながら神の楽園に2人はとどまることができなくなりました。エデンの園と言う安全地帯から追放された2人は、危険な地での生活をしなければなりませんでした。そこで神様は2人に毛皮の服を与えられました。神様との約束を破り、神様に背を向けたにもかかわらず、これから待ち受ける厳しい環境の中で生き抜けることができるように丈夫な皮の服を与えられました。ここに神様の人への慈しみ、愛情を見出すことができます。約束を守れなかった2人に神様は罰ではなく、やさしさを与えられたのです。人はしばしばうまくゆかず、神様を恨んだりしますが、それでも神様はいつも人を「あなたを」大切に思っておられる方なのです。

2022年7月

主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前はあらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」 創世記3章14節

 ヘビが好きな人よりも圧倒的にヘビが嫌いな人の方が多いのではないでしょうか。古くから人類はヘビを恐れてきました。しかし、なぜ、ヘビを恐れているのでしょうか。一説には、毒を持つ蛇に対して警戒するように生物的な危機回避能力がDNAに刻まれているからだとも言われています。けれども、アジアでは、白ヘビは神様の使いと言われており、「干支」にもヘビは入っています。また、「巳(ミ)入りが良い」との言葉からヘビ革の財布は高級品としても販売されています。しかし、聖書には、ヘビが人をだましたから、神様はその罰として、ヘビは人から嫌われるようになったと書かれています。もしも、ヘビが誰からも嫌われる理由が人間側にあるとするならばヘビにも同情してしまいますが、人をだますような存在は、ヘビでなくても誰もが敬遠してしまうものです。ちなみに聖書にはヘビを悪魔と同一視している箇所もありますが、竿の先に取り付けた青銅のヘビを見ると死を免れた物語(民数記21章)もあります。人もヘビも悪者にもなれば、良い存在でもあるということでしょうか。

2022年6月

神:「どこにいるのか」 アダム:「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」 神:「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」 アダム:「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」 神:「何ということをしたのか。」 エバ:「蛇がだましたので、食べてしまいました。」   創世記3章10~13節

 アダムとエバは神様から「知識の木の実」を取って食べてはいけないと命じられていましたが、「神様のように賢くなれる」とヘビに誘惑されて、木の実を食べてしまいました。結局、神様のようになるために善悪の知識の木の実を食べたにもかかわらず、彼らが知ったことは、皮肉にも自らの罪、弱い自分自身であったと言うことです。しかも、その罪を素直に認めることが出来ず、自分は被害者であることを強調し、罪を他者に責任転嫁してしまいました。「私は悪くない、悪いのは部下だ」などと言う上司に見られる心の闇は、残念ながら、すでに人類の誕生時から存在していたようです。この物語を読むたびに思うことは、素直に自らの非を認めることの方が、弁解に弁解を重ねて追い詰められていく苦しみに比べれば、心の負担も少ないように思えると言うことです。人はいつも正しく生きられるわけではありません。願望や誘惑に負けることもあります。しかし、一番大切なことは間違いを認め、やり直す勇気を持つことです。自らの罪を覆い隠す知恵を持つ人よりも、間違いに気づき、謝罪することのできる勇気を持つ人の方が、よほど立派な人物のように見えるものです。そして、すべてのことをお見通しの神様は、その心根ゆえに赦しを与えてくださる方なのです。

2022年5月

彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」創世記3章10節

 子どもの頃、悪さをした後の夕食時が恐ろしく感じられました。昼間の悪さがバレちゃっただろうか?何て怒られるだろうか?ビクビクしながら食べた夕食は、美味しくはなかったはずです。この創世記3章を読むときは、そんな子どもの頃の恐怖心がよみがえってきます。

 神様が創られた最初の人アダムもそんな恐怖心を神様に抱いていたのです。彼の中では、まだ逃げ切れると持っていたでしょうか。きっと無理だと思っていたことでしょう。神様の足音を聞き、声をかけられたとき、素直に「裸ですから」と答えてしまうほどでした。それまで裸を恥ずかしいとは思っていなかったのに、急に「裸である」ことを意識したのは、間違いなく善悪の知識の実を食べてしまったからに他なりません。まさに自ら「墓穴を掘る」と言うものです。

 嘘やごまかしたりすることはあります。良いことのためにするのであれば、嘘も方便なのかもしれませんが、そうでないならばあまり良い気持ちではありません。むしろ、自分自身を裏切ったりすると恐怖や後悔は、その後、ずっと引きずってしまうものです。そういう意味でも、自分の心を傷つけるウソやごまかしは避けたいものです。しかし、それでも神様はそんないくつもの傷を持つ私たちではありますが、大切に思ってくださる方であることも事実です。

2022年4月

その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」創世記第3章8・9節

 神様との約束を破ってしまったアダムとエバは、神様に会いたくないので隠れてしまいました。人は罪の自覚があれば、当事者を避けたくなるものです。そんなときはだいたい当事者が探しているものです。たぶん神様のことですからアダムとエバが行ったことなど全部、お見通しだったのかもしれません。きっと、二人の居場所もわかっていたことでしょう。それでも二人が自ら神様の前に姿を現すことを期待されていたのです。そして、二人から話を聴き、彼らが心から謝ったのなら神様もゆるしてくださったことでしょう。なぜならば、神様は人が間違いを犯しても、罰ではなく、人が悔い改めるならば、ゆるしを与える方だからです。きっと神様は二人の罪を赦すために探しておられたのではないでしょうか。神様は迷子になった子羊のような彼ら二人を探し求められておられました。同じように、誰にも知られず悩み苦しむ私たちを救い出すために、今日も神様は探し続けてくださっているのです。

2022年3月

「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」創世記第3章7節

人類最初の人アダムとエバは、ヘビにだまされ、神様から「善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない」と言われた約束を破って、その実を食べてしまいました。すると、彼らは木の実の効果で「善悪の知識」に目覚めたのです。それまで小さな子どものように裸であることに何の抵抗もなかった2人は、急に裸であることが恥ずかしくなり、イチジクの葉で腰を覆いました。人はウソをつくときや隠したいものがあるとき、知られるとマズイものを見えなくして誰にもわからなくしようとします。善悪を知り、神様のように良いことを行いたかったにもかかわらず、皮肉にも、彼らは神様との約束を破ってしまったと言う自分たちの悪を知ってしまったのです。だから、自分たちの悪を恥じ、神様から見えないように自分たちを覆い隠したのです。間違いを犯したとき、自らの非を認め、素直に謝れば、まだ何とかなったかもしれませんが、自分の罪をなかったことにしようと隠ぺいしたところに罪は積み重なっていきます。こういうのは浅知恵と言うのですが、意外とわからないと思っていたりします。どんなに隠していても神様ですから何でもお見通しなのに。

2022年2月

「女が見ると、その木は食べるに良く、目には美しく、また、賢くなるというその木は好ましく思われた。」創世記3章6節

 神様が創造された最初の女性 エバ は、ヘビからそそのかされますが、そもそも彼女は神様から食べてはいけないと言われた時点で、この木の実にとても関心を持っていたのかもしれません。ちょうど食べ頃、食べたくなるような美しい形、そして、何よりもこの実を食べると賢くなれる、だんだんそう見えてきました。ダメだと言われると余計に食べたくなるのが、人の欲望です。そして、欲望は膨らみだせば止まりません。

 先日、ニュースで、大学入試に出題された問題が外部に流出したと報じられていました。いわゆるカンニングですが、なくなるどころか、毎回、巧妙になっていくそうです。 エバ に始まり、歴史的にも人はそれほどまでして「賢くなりたい」生き物のようです。

 なぜ、人は偉くなりたいのでしょうか?それは人から自分と言う存在が尊ばれたい、自分を大切に思ってほしいと言う願望があるからだと思います。反対に自尊心が低い人もつらいですが、その努力もせずに、人々から尊敬されたいと熱望する人も自分自身を窮地に追い込みがちです。けれども、神様は人を尊い存在としてお創りになり、人はそのままで神様から愛されている存在なのです。どんな人間であったとしても大切な存在であることに間違いありません。 エバ は木の実を食べて賢くならなくても、神様とアダムに愛されていることに変わりはなかったのです。悲劇はそこに気づけなかったことにありました。

2022年1月

「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」創世記3章5節

 悪賢いヘビは、女性 エバ を誘惑します。「神様のようになれる」と。古来、人は神様になりたがってきました。権力を持つと人は、自らを神と自称し、自らの前に人々を恐怖によってひれ伏させてきました。現代ではさらに「神」は安売りされ、「〇〇の神」など呼ばれます。けれども、本来、神様はそれほど身近な存在ではなく、畏敬(恐れ敬うこと)の対象でした。神様が創られた人間は、神様になることはできません。人間は人間なのですから。けれども、人が人であることは決して悪いことではありません。むしろ、人は神様に創られ、価値あるものとして命を吹き込まれた存在なのです。生きているだけで価値ある者とされているにもかかわらず、「神様になりたい」と言う貪欲さが人間の心の奥底に沈んでおり、ヘビは人間の貪欲さを呼び覚ますキッカケに過ぎなかったのです。結局、人は神にはなれず、我が身を滅ぼすことになってしまいます。人間として成長することは素晴らしいことですが、欲張ると自滅するということのようです。

2021年12月

「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。」 創世記3章2節

 創世記第3章は、賢いヘビが、人類最初の人アダムと エバ をだます「蛇の誘惑」と言われている章です。以下はヘビと エバ (女)の会話です。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」ヘビは、わざと否定形で エバ に質問しています。人は否定形で質問されると肯定してしまいたくなると言う心理的な手法です。さらに、神様は2章で「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」と言われたのですが、 エバ は神様の言葉に「触れてもいけない」を追加しています。これは エバ が、神様の言葉を強調するために用いた言葉です。なぜならば、 エバ は神様の言葉を守らなければならないと思っていましたし、自分はそれを正しく守っていると自信を持っていました。ヘビは、その エバ の自信を利用したのです。詐欺に引っ掛かりやすい人の傾向があるそうです。それは「自分は絶対に詐欺には引っ掛からない。だまされない」と固く信じている人だそうです。 エバ の言葉から、賢いヘビに対して必要以上に防衛する言葉を使っています。自分は正しいと自信を思っている人ほど、間違いに気づきにくいものです。そういう意味では、自分に自信のない人は常に自分自身を警戒し、用心しているので、自分の間違いには気が付きやすい人ではないでしょうか。人は間違えるものですし、間違えてもいいのです。重要なのはその後、間違いを正すことができるかどうかなのです。やわらかい心で自分の進む道はいつでも自由に変えられることができるのです。それは神様が自由な存在として人間をお創りになられたからなのです。

2021年11月

「神である主が造られたあらゆる野の獣の中で、最も賢いのは蛇であった。」 創世記3章1節

 この世の始まりが記されてある創世記には、神様が創られた生き物の中で最も賢い生き物としてヘビをお創りになったとあります。どうして人間じゃなくてヘビだったのかはわかりません。しかし、ヘビはその賢さを悪用して人間(アダムと エバ )をだまし、その代償として、神様はヘビに「嫌われる」という呪いを与え、狡猾なヘビは人に嫌われるようになったと書かれてあります。

 聖書とは別に人は何故、ヘビを嫌うのでしょうか。猿が人間の祖先であった類人猿の時代からヘビは人間の天敵であり、現代人にもそのDNAが組み込まれているという説。ニョロニョロとしたグロテスクな見た目や毒を持つためという説。人がヘビを嫌う理由は、いろいろあるようですが、はっきりとはしていません。けれども、もしかすると人や動物がヘビを嫌うためにヘビは乱獲を免れ、1億年もの長い時間を生き延びてこられたのかもしれません。ヘビが嫌われることで生き残るのであれば、それはヘビの賢さなのか、「呪い」ではなく、神様の祝福なのか。時には嫌われることもあるかもしれませんが、私たち人間もヘビのように賢く生きることも必要なのかもしれません。

2021年10月

「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」創世記2章25節

 人は何歳ぐらいから恥ずかしくなるのでしょうか?もちろん、個人差はあるでしょうが、個人の成熟度や生育環境、性別など様々な条件があると言われています。私の場合、家族の証言や自分の記憶からも、あまり羞恥心を感じていない子どもであったと思われます。

 神様が創られた最初の「人」つまり、アダムと「妻」 エバ は、結婚できたのですから成人であったと思われます。成人した男女が、裸でも恥ずかしくないという状況は、ジャングルの中で生きてきた人のように「裸が恥ずかしいことだ」という認識がない世界に生きていたとしか考えられません。けれども、裸とは「ありのままの自分」のことを意味するとすれば、自分自身に自信がなく、何かによって本当の自分の姿を隠したいと思わない人たちだったのかもしれません。誰でも知らない人や多くの人に裸の心、本心は見られたくないものです。それは自分を受け入れてくれる人にだけ、それは許されていることです。つまり、誰にも恥じることなく、安心して自分を受け入れてくれる場所、それが、神様が共におられるところなのです。

2021年9月

「男は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる。」創世記2章24節

 神様が創造された最初の人アダムと エバ が夫婦になったことを言っているのでしょうが、アダムも エバ も神様に造られたのだから父母はいません。文章としては「???」なのですが、夫婦の姿を表す言葉として結婚式でよく読まれています。そうであれば、逆に「女は父母を離れて夫と結ばれ、二人は一体となる」でも良いのです。聖パウロと言う聖人はこの言葉は「結婚の奥義」であると言っていますが、わたしは、この言葉には3つの結婚の真実が刻まれていると信じており、結婚される方々には、結婚について、以下のようなことを申し上げさせていただいています。

 最初は「男(女)は父母を離れ」ですが、多くの場合、結婚すると法律的にも新しい戸籍に入り、新居に住み、二人で生活を始めていきます。事実婚や同居の場合もあるかもしれませんが、一つの家庭を持つと言うことにおいては、何時までも父母の支援を受け続けることは不可能です。つまり、結婚とは両親や家族から巣立ち、大人として独り立ちしなければなしえないことなのです。

 2番目は「妻(夫)と結ばれ」ですが、これは異なる人と結びつくことです。ある芸能人夫婦が離婚理由として「性格の不一致」を挙げていましたが、そもそも人は他者とは異なる存在なのです。違っているからこそ、自分の持っていない部分に魅せられ、足りないところを補い合うことができるのです。自分の思っていることを相手も理解できると思っていることこそ大きな間違いなのです。ですから、男女は異なる存在であるからこそ、コミュニケーションが必要なのです。

 最後に「二人は一体となる」ですが、夫婦2人は、一つの家庭と言う人間社会の原型なのであり、夫婦が一つの家庭を築き上げていくことが結婚の目的なのです。

 誰でも幸せになるために結婚するのですが、ドラマのように結婚すれば自動的に幸せになれるわけではありません。幸せな結婚生活のためには、自分と相手の両方が幸福になる必要があるのです。

2021年8月

人(アダム)は言った。「これこそ、私の骨の骨、肉の肉。これを女と名付けよう。これは男から取られたからである。」創世記2章23節

 今月の聖書の言葉は、最初に創造された人アダムが、自分の弱さを助けてくれるパートナーである女性、 エバ を見て喜んだときの言葉でした。「私の骨の骨、肉の肉」という表現は、非常に近い関係を指しています。家族・親族の争いを「骨肉の争い」などと言いますが、アダムは エバ を自分の痛みを知り、苦しみを分かち合えることのできる自分の分身に等しい存在であると喜んでいるのです。まさに理想の伴侶(パートナー)であると言えるでしょう。

 わたしたちは人と比べて自分が劣っていると落ち込み、誰かが失敗すると優越感に浸り、成功すると嫉妬しています。そこで他人と自分を比べることを止めてみてはどうでしょう。人と比べて自分はどのあたりなのかということを心配し、不安になることは、いつも誰かの動向を気にしなければならず、結局は、人に引っ張り回されることになります。そうではなく、人も私も神様が創られた同じ大切な命を持つ者。長所もあれば、短所もある。他人の動向に一喜一憂するのではなく、自分自身が満足し、納得のいく一日を過ごすことを求め続けると、それがいつしか他人との関係や距離をより良く保てる、良い意味での「マイペース」になるのではないでしょうか。できることなら、アダムみたいに、人のことでも自分自身のように喜べる人になりたいものですね。

2021年7月

主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。創世記2章19節

天地創造では、神様が土で人間やその他の動物たちを土で形つくられました。アニメにあるように「下請け」に出された聖書には書かれてありません。(笑)もしも、下請けということであれば、初めの人アダムが、創られた動物に名前を付けたようです。インターネットGooにある「変な名前だなと思うランキング」のベスト3は以下の通りです。1位オジサン(魚)、2位インターネットウミウシ(ウミウシ)、3位スベスベケブカガニ(かに)…。興味のある方は検索して見てください。もちろん、古代人アダムが付けた名前ではないと思いますが、私たちが知るすべてのものの名前は、アダムの後継者である誰かが付けてくれたのです。ちなみに、アダムという名前は神様が土(アダマ)から造ったから人だからアダムとなり、アダムという名前は「人」を意味しています。

 イエス・キリストのキリストは、王様や預言者の就任式で行われた行為から「油注がれた者」を意味する称号で、後に「メシア=救い主」の意味になりました。イエスは「神は救い」という意味に名前ですが、ユダヤ人の男の子に付けられる非常に一般的な名前でした。ちなみに、貧しい庶民のイエス様は苗字はなく、ナザレ村出身だったので「ナザレのイエス」と呼ばれていました。イエスという名前は、「名は体を表す」と言う通り、イエス様を通して神様がわたしたち人類の救ってくださったのです。何かの修行や資格も必要ありません。そのままのわたし。悪も善もごちゃごちゃある等身大のわたしに向けて、すでにイエス様の命によって「神様の救い」は開かれているのです。

2021年6月

主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」創世記2章18節

 緊急事態宣言が延長となり、長い自粛期間が続いています。初夏の日差しとなり、不要不急の外出を指摘される人がいますが、このステイホームを楽しんでいる人々も少なからずおられます。今まで家にいることが好きな人たちを低く見ていた社会の価値観が逆転し、家にいることの良さが求められ、自宅の時間を楽しむことが見直されています。アウトドア派もインドア派もルールの中で自分たちの時間を楽しむことは問題ではありません。

 けれども、「孤立、孤独」はどんな状況であっても好ましいとことではありません。たった一人で部屋の中にいても誰かとつながっていることが重要で、多くの人に取り囲まれていても、誰ともつながっていない「ひとりぼっち」で孤立していることは、しばしば命の危険に陥る可能性があります。

 そして、神様はそんな「孤独・孤立」したアダムを「良くない」と思われ、彼に合う助け手・パートナーとしてエバ(イヴ)を創られました。人は皆、誰かに助けてもらわなければ生きてはいけません。自分一人の力で生きていると思っていられる人は、自分に自信がある時だけです。そんな時は長くは続きません。挫折や困難に突き当たると自分の弱さ、もろさを思い知らされます。

 けれども、神様はそんな弱い人間たちのために助け手となる仲間や家族を与えてくださっているのです。つらい時には助けてくれる人の手を借りても良いのです。「助けて!」と叫ぶ勇気を持ちましょう。友人や家族に言えなくても、私たち教会の牧師など宗教家に相談してください。「助けて」と言うことは恥ずかしいことではありません。神様も孤独だと感じているあなたを心配しておられるのですから。

2021年5月

神である主は、人に命じられた。「園のどの木からでも取って食べなさい。ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる。」創世記2章16・17節

 アダムとエバの失楽園の物語は、神様が「善悪の知識の木」の実を食べてはいけないと人と約束したことから始まります。そもそも神様が「善悪の知識の木」をそこに植えなければ良かったのだし、そんな約束をしければアダムもエバも楽しく楽園で過ごすことができたはずです。神様は意地悪なのでしょうか?

 どこの世界にもやってはならないタブー、禁止事項はあります。人として社会の中で生活していく上で、やってはいけないこと。例えば、他人を傷つけてはいけないとか、人の物をとってはいけないと言ったことです。人間社会で安心して仲良くやっていくためには、お互いが信頼する必要があり、そのためには犯してはならない社会的なルールが必要になります。そうでなければ、強者が支配し、多くの人が奴隷となる恐ろしい世界になってしまいます。

 アダムもエバは神様のようになりたいと「善悪の知識の木」を食べたのですが、それによって自分は神様との約束を破ってしまった罪を知ってしまいます。欲望に駆られて人としてやってはいけないことが、自らの居場所をも奪う結果となってしまったのです。

 けれども、神様は楽園にいられなくなったアダムとエバに皮の服を着せられました。約束を破った者でさえも大切に思っている神様の優しさを感じます。間違いを犯したアダムとエバのことを神様は一番残念に思っておられ、それは今も変わらず、神様は私たちを慈しんでおられます。

2021年4月

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。  創世記2章7節

ある人が人間の体の値段を計算しました。肉体からは脂肪が石鹸7個分、炭素が鉛筆の芯9,000本分、鉄分は2寸釘(約65mm)1本分、リンがマッチの頭2,200個分が取れるので、それらを換金すると5,000円ぐらいになるそうです。想像していた以上に安いです。まさにホームセンターで売っている家庭菜園用の土程度です。けれども、不思議なもので、この5000円程度の肉体を駆使するプロのスポーツ選手たちは数億から数百億円も稼ぐわけですからコスパ(費用対効果)は最高なのかもしれません。つまり、神様は安い材料で形作っても、命を吹き込むことで何百・何千倍もの価値を生み出す人間を作り出したのです。自分の元手は5000円だと思えば、アルバイト1日で元は取り返せますから、それ以降は丸儲け、人生はトクだらけです。神様は私たち人類に尊い命を与えてくださったのです。

2021年3月

「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。」創世記2章2節

 私たちが過ごす7日間を1週間とし、そのうち1日を休日とする習慣は、聖書に由来し、明治政府が日本に取り入れました。江戸時代まで「盆暮れ正月」と言われていた庶民の労働は、この周期的な休みをとることにより生産性を高めました。一定の休息のサイクルが、体調を整え、心をリフレッシュし、労働意欲を増していったからです。

 このように私たち人間には、毎日のリズムが重要で、不安定な生活リズムは体を壊す原因ともなりかねません。特に精神的なつらさは時間的な休息では解消されず、気持ちを切り変えたり、オンとオフにしたりしてリセットすることが有効です。それでもうまくいかない場合は、根本的な問題、悩みの種が消滅していないので、リセットしても再び支障が出てしまいます。しかし、やすやすとトラブルの原因は消えてなくなってはくれません。そんな時は自分を支えてくれる存在が必要です。誰かから自分が受け入れられ、愛されていることで、何かを失敗しても、拒否されても、そんな自分を愛してくれるものが一つでもあるならば、人は日々を耐えていくことができるのです。そして、耐え抜いたその先には、必ず今とは違う喜びを見出すことができるのです。

 しかし、もしかすると、周囲の人々の中に自分を受け止めてくれる人を見出すことができないかもしれません。でも、大丈夫です。目を閉じて、心を落ち着かせ、神様に心を向けてみましょう。神様はあなたの側におられます。そして、「大丈夫、ここで安心して休みなさい」と言われておられます。心を静かにして神様の声に耳を傾けてみましょう。

2021年2月

神は、造ったすべてのものを御覧になった。それは極めて良かった。  創世記1章31節

 1967年から連載された赤塚不二夫さんの漫画「天才バカボン」に登場するバカボンのパパの口癖は、「これでいいのだ」です。最初にこの言葉をバカボンのパパはこう言いました。『わしは、バカボンのパパなのだ。この世はむずかしいのだ。わしの思うようにはならないのだ。でも、わしは大丈夫なのだ。わしはいつでもわしなので大丈夫なのだ。これでいいのだと言っているから、大丈夫なのだ。あなたも、あなたで、それでいいのだ。それでいいのだ。それでいいのだ」

 「これでいいのだ」とは、なんだか無理に納得したり、妥協したりしているようにも聞こえますが、実はそうではなく、現実を現実として受け止め、そこから自分は何ができるのかと言うチャレンジに向かう前向き、ポジティブな言葉のようです。今を認めることが前進するためには必要不可欠なのです。

 コロナ禍にあって否定したくなるような現実が続いています。2019年までの生活には戻れないとはわかっていても以前の生活を求めてしまっている自分がいます。10年後、20年後のことはわかりませんが、コロナを乗り越えるためには、希望を持って前を向くことが必要なのです。そのために私たちは今と言うときの上にしっかりと立ち、神様が与えてくださっている「良いもの」に目をむけなければなりません。災いを幸福に変えることは、人類に与えられた神様からの素晴らしい賜物なのですから。

2021年1月

神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。     創世記1章3節

 新年、明けましておめでとうございます。新しい年を迎えると、気持ちをリセットできる気がします。去年のコロナ禍でつらい思いをされた方、いやな出来事があった方が多くおられました。コロナの悪影響は、様々な形で、様々な場所に現れてわたしたちを苦しめました。もちろん、今年も状況は、そんなに好転はしていないかもしれませんが、それでも今年は何か良いことが起こってほしいと神様に願いを祈らずにはいられません。なぜならば、神様は暗闇を光によって打ち破った方であるからです。この世の始まりは「無」でした。何もありません。そんな中、神様はこの世を創り出すためにまず、光を作られました。神様がこの世界を作られるイメージは、粘土遊びのように何かをこねて形作るようなことを想像していましたが、そうではないようです。神様はただ一言「光あれ!」と言われると光が生まれ、明るく輝いたのです。そして、私たちの心の中の闇にも同じことが起こります。真っ暗闇の中で動けず、うずくまっている時に神様の声が響き、どこからか光が射し込んできます。そして、立ち上がり、進むべき道が明らかにされるのです。天地創造と同じように、わたしの心の中が新しく作られるのです。新年はそんな「自分の再創造」を期待したいのです。

2020年12月

「主よ、あなたはわたしのともしび。             わたしの闇を照らす方」詩編18編28節

 12月と言えば「クリスマス」です。聖書にはキリストの誕生日については何も書かれていません。私たちは西洋の教会が伝えてくれた12月25日をキリスト降誕祭、クリスマスとしてお祝いしますが、ロシアなどの教会では1月6日にクリスマスをお祝いしています。これには歴史的に大人の事情があるのですが、12月25日がクリスマスに決まった背景には「冬至」がありました。冬至は一年で最も夜が長く、冬至を過ぎれば、昼間が次第に長くなっていきます。ここからこの世の暗闇の中に救い主イエス・キリストと言う光が生まれ、それが次第に大きくなって行くことを象徴するためにクリスマスは、冬至の日に定められました。                              キリストの誕生日がクリスマスだと知らない人でも、クリスマスには少しでも温かい気持ちになり、大切な誰かを暖めてあげることができれば、それはもう本当のクリスマスを過ごしていることになります。クリスマスは、その日1日だけでも、世界中の人々が争いを止め、大切な誰かに光りを向けてあげられるために2000年以上前から存在しています。あなたにとって今年のクリスマスが、小さな光となりますようにお祈りしています。 Merry Christmas!

2020年11月

「神よ、あなたに叫ぶ わたしにこたえ 耳を傾けて願いを聞いてください」 詩編17編6節

マイクロソフトの創業者ビル・ゲイツは高校生に向かって「世の中は残念ながら、不公平。自分の力でどうにもならないこともある」と言いました。誰かに理不尽なことをされたことで深く傷つくことがあります。しかも、誰も助けてくれない。みな見て見ぬふりそしているのか、見えていないのかわからない。どうすればいいかわからない。きっとそんな人の気持ちを代表した歌が、この詩篇なのだと思います。今も昔も変わらず、神様に助けを求める必死の叫びが聞こえてきます。きっと状況は変わらないかもしれませんが、数は少なくても、あなたをしっかり支えている人たちが必ずいるはずです。もしも、その人たちが見えなければ、少し場所を変え、角度を変えて自分のいる場所を振り返って見てみましょう。きっと見つけることができるはずです。確かに神様はあなたの叫びを聞き届けてくださり、振り返ると神様が共にいてくださるということを。

2020年10月

あなた(神)は命の道を示してくださる。                          み前にはあふれる喜び、みもとには永遠の楽しみがある。 詩編16編11節

 コロナ禍の生活もだいぶ慣れてきたとは言え、やはり、以前のような生活ができないという不自由さは、知らず知らずのうちに心の中にストレスを抱え込んでしまっているのかもしれません。日々うつむいて歩いている人々は命の道にある喜びを見逃しています。神様は私たちの日常のいたるところに「うれしいプレゼント」を置かれていますので、それを見つければ、幸せな気持ちになることができます。夜、寝る前にその日1日を振り返り、喜びの贈り物がどこにあったのか探してみてください。そして、もし一つでもうれしい出来事を見つけることができたならば、その日からあなたはきっと喜びの宝物を日々、見つけることができるでしょう。そして、そのときには神様に感謝して眠りにつくと心地よく眠れますし、ワクワクした気持ちで朝を迎えることができます。神様からいただく幸せ探しゲームは、あなたを命の喜びに導いてくれます。

2020年9月

「言葉で人を傷つけず、その友に悪を行わず、 隣人をはずかしめない」   詩編15編3節

 今年5月、プロレスラーの女性が、出演したテレビ番組での言動をSNSで誹謗中傷され、自ら命を絶ってしまいました。最近、SNSに関するトラブルが急増し、専門家が動き出しています。古くは「村八分」「非国民」などと呼ばれて差別を受けてきた人々の歴史がありますが、現代では発言者の身元を明かさず、一方的に非難することができるため、さらなる恐怖が生み出されています。なぜ、そんなに人を傷つける言葉を投げつけるのかと言えば、「自分は正しいのだから悪者を罰しなければならない」と言う歪んだ正義が主張されています。しかし、その裏側には、社会や周囲に対する不満が存在しています。誰にも、どこにもぶつけられない怒りを、「正義」と言う大義に便乗して、まったく関係のない他人に容赦なくぶつける。それは現代人の心の闇なのです。しかし、聖書に示されているまことの人間の有り方とは、そのような独りよがりな正義が満ちた社会ではありません。間違いを赦せる余裕を心に持ち、誰かの命のために発言できる知恵と勇気のある社会、人とのつながりを大切にする関係なのです。

2020年8月

イエスは四十日間そこにとどまりサタンから誘惑を受けられた。
マルコによる福音書1章13節

 先日、若手俳優の方が自死されました。将来を期待されていただけに、早すぎた死に惜しまれる声が多くあがっています。彼は多くの人から愛され、たくさんの友人や信頼できる人がいたようです。しかし、誰一人彼の命を守り切れなかったことは、残念でしかたありません。なぜ、そんなことをしたのか?その理由は誰にもわかりませんが、もしかすると、ほんの一瞬、彼の中に魔が差して「もうダメだ」と言う気持ちが、彼の心をシャットダウンしてしまったのかもしれません。

「魔が差す」という言葉は、一説にはギリシャの言葉が由来であるとされています。ギリシャの言葉には「いい」ということを意味する「agathas」と言う言葉と、「否定」を意味する「ma」と言う言葉があり、この2つを合わせると「少しの時間だけ悪いことをしてしまう」といった意味の「magathasu」という言葉になるため、この言葉が由来となっているのではないかとの説があります。イエス・キリストでさえも悪魔から誘惑を受けたのですから、私たちが悪魔の誘惑にしばしば負けてしまうのも仕方がないことかもしれません。しかし、イエス様が悪魔に勝った最大の理由は、孤独ではなかったと言うことです。確かに自分の周りには誰もいない、けれども、誰かとつながっていることが大切なのです。イエス様は最強の神様とつながっていたので強い悪魔にも勝つことができたのです。そして、そんな神様とつながることは、弱い私でもできるのです。

2020年7月

 主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。
 箴言1章7節

 クリスチャンスクールと言われるキリスト教主義学校には「Timor Domini Principium Scientiae」と言う言葉が掲げられています。日本語で「主を畏れることは知恵の初め」と言い、旧約聖書の詩編と箴言にある言葉です。「主」とは神様のことで、「畏れる」とは「恐怖」ではなく、「尊ぶ」ことを意味します。つまり、神様を畏れ敬うことは、人間にとって学門・知識の第一歩である、と言うことなのです。それは「神をも畏れぬ非道な行為」と昔から言われる通り、人が神となって傍若無人な行為を戒める言葉でもあります。
 「知恵」と言う言葉は、「知る」と「恵み」と言う漢字で作られています。「恵み」とは、才能、特技、能力、得意など、神様が私たちに与えてくださっている良いもののことで、私たちがすでに持っている宝物のことです。それを見つけている人もいれば、まだ発見していない人もいます。しかし、私たちの中に神様は必ず素晴らしい宝物を与えてくださっているのです。そして、それを発見するために人は知ることが必要なのです。さらに、大切な誰かのために、この世の人々のために、その宝物の正しい使用方法を学ばなければなりません。私たちは幸せになるために生まれてきましたが、誰かを幸せにできる人は、自分自身も幸せになります。そのために神様を畏れ、己を知り、他者のために学ぶことが重要なのです。聖書はいつの時代にも私たちにとって大切なことを教えてくれています。

2020年6月

事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。
ヘブライ人への手紙 2章18節

キリスト教会のシンボルは十字架ですが、それはイエス・キリストがはりつけの刑に処されたことに由来しています。ローマ帝国の法律では、政治犯は十字架刑と言う最も重い処罰を受けるように定められており、イエス様は宗教的・政治的指導者たちから「嫉妬」されて反乱の首謀者として訴えられ、えん罪で処刑されてしまいました。その時、イエス様を慕っていた弟子たちは、捕まるのが怖くて逃げ去り、好意を寄せていた人たちは権力者を恐れてしまいました。孤独、屈辱、罵声、ムチ打ち、精神的・肉体的な苦痛が骨の中まで突き刺さるほどの苦しみの中に落とされたのです。神のみ子がなぜ、それほどまでに苦しむ必要があったのでしょうか?救い主(メシア)は、人が受ける痛みと苦しみを担うことが必要であったからです。イエス様は痛みを知っているからこそ、人の痛みがわかり、苦しまれたからこそ、人の苦しみを自分のものとして共に十字架を背負うことができるのです。  避けることができない困難や苦難が私たちを襲ってきても、共に苦しみを担ってくれる方があることは勇気づけられることです。だって、神様が共におられるのですから。

2020年5月

 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
コリントの信徒への手紙Ⅰ 10章13節

 新型コロナウイルス感染症の影響で多くの人が苦しんでおられます。亡くなった方々、病のうちにある方々、ウイルスと戦う医療関係者の方々、その他にも教育(子育て)や経済的にも苦しまれておられる方が多くおられます。このような状況はまさに人類に課せられたつらい試練以上とも思える苦しみです。けれども、人類は歴史上、その存在を揺るがされるような危機に幾度となく遭遇してきましたが、そのたびに乗り越え、二度と繰り返さないために進化してきました。今回も神様はそのような逃れの道を用意してくださっておられることを信じます。一日でも早く終息の日を迎えることができるようにお祈りいたします。

2020年4月

主の目は人々の上に注がれ その心を見通しておられる
詩編11篇5節

新型コロナウイルスによる感染拡大が続いており、WHOも「パンデミック(世界的大流行)」、「人類の敵」と言っています。私たちの生活の様々なところに悪影響が出ており、一日でも早く収束してほしいと願うばかりです。しかし、多くの人が苦しんでいるときに人の弱みに付け込む輩がいることは腹立たしい限りです。品切れの商品を高値で転売することも良くはありませんが、「無料マスク配布」と言って個人情報をだまし取ったり、「ウイルス除去」と偽って高額な工事費用を請求したり、厚生労働省などの役所の名前を使った詐欺が横行しています。けれども、神様はこの世の悪、人々を苦しめる者たちの悪を見過ごしにはされません。例えどんな権力者であってもその悪行は必ず、明らかにされることは、歴史を見ても明らかです。確かに悪はすぐには罰せられないかもしれません。悪人は悪を行っても捕まらず、平然と生きているように見えますが、すべてを見通しておられる神様は見逃すことはないのです。それは悪い行いだけではなく、私たちの良い行いについても神様は、誰にも評価されなくても知っていてくださるということでもあるのです。

2020年3月

悪人はおごり高ぶって主を求めない 彼はただ「神はいない」と思っている
詩編10篇4節

新型コロナウイルスが猛威をふるっています。治療薬もない今の時点では、外出を控え、感染の可能性がある行動はしないことが望ましいと言われています。授業も休校となり、3月の卒業式も行えない学校もあるそうです。しかし、多くの人が不安に陥っている原因は、出口が見えないからです。毎日、感染者増加などの悪い情報しかなく、終わりがわからない現状では、ウソやデマが広がり、買い占めや便乗値上げが起こって情報化社会の弱点があらわになっています。科学万能だと信じている私たちは、このようなときに「未知なるもの」があることを思い知らされます。そのようなときには、神様に祈ることしかできません。人は無力だからこそ人は祈るのです。私たちは善人ではないかもしれないけれども、神様を信じたくないほどの悪人でもありません。だから、祈ること、祈る続けることは、私たちに残された最後の希望なのです。どんな時にも希望を持つことのできる人は幸いな人です。1日でも早くウイルスの流行が終息することをお祈りいたします。

2020年2月

神は悲しむ人をかえりみ、その嘆きを心にとめ 苦しむ人の叫びを拒まれない 詩編9篇12節

 「人生は不条理でできている」そう思ったことはありませんか?職場や学校でのいじめ、幼い子どもや高齢者への虐待は、「本人のため」と言いながら、加害者の溢れ出るストレスのはけ口として行われています。そして、その理由もまた他者から被害を受けたと訴えていることを考えると歪んだ現代社会の問題が根深く関係しているように見えます。経済大国では、どこの国でも行き場のない怒りが町には溢れ、人々は怒りをぶちまけるために、誰か失敗しないか、どこかに落ち度はないかと目を光らせています。もしも、あなたの中に怒りがあり、不条理な世の中に嘆いているのであるのなら、その思いのたけを神様に思いっきり叫んでください。「バカヤロー!」と神様にグチってもよいのです。神様はそんなあなたの思いをちゃんと受け止めてくださいます。そして、もちろん、神様は年中無休、無料です。                    

2020年1月

あなたの指の業の大空を仰ぎ あなたがちりばめた月と星を眺めて思う 人とは何者か、なぜ、これにみ心を留められるのか なぜ、人の子をかえりみられるのか 詩編8編3・4節

明けましておめでとうございます。 富士山ではなくても、六甲山から見る初日の出もまた素晴らしい景色ではないでしょうか。この世の中には「絶景」と呼ばれる場所が数多くあり、今日では、そこに行かなくてもDVDやインターネットで楽しむことができますし、VR(バーチャル・リアリティー)を使えば体験することさえ可能です。けれども、そんな絶景は誰が作ったのでしょうか?偶然できたとは思えませんし、もちろん、人工的に作り出すことは不可能です。  昔、ガリレオ・ガリレイの友人が部屋に飾られてある精密な天体模型を見て「これは君が作ったのかい?」と聞きました。ガリレオは「これは偶然、出来たと思うかい?」と言って神様が創られた宇宙について話をしたそうです。 朝日と夜空の星は、冬が一年でも最も美しく見ることができます。そして、それらを造られた方のことを思うとき、神秘的な大宇宙に、小さな自分の悩みなど取るに足りないことのように思えてきます。 今年、1年の神様のお恵みが、あなたに豊かにありますようにお祈りいたします。

2019年12月

主は、正しい人を平安をもって祝福し、恵みの盾で囲んでくださる。

旧約聖書 詩編4編12節

「キリスト教は、ご利益宗教ではありません。」とよく言われますが、その理由は、利益を与えてくれると期待して神様を拝むのではないと言うことです。つまり、「神様、どうか、私に○○を与えてください」とのお祈りがなくても、神様はちゃんとその人を見ておられますから、お祈り以上のお恵みが与えられるのです。しかし、ときに神様は自分の要求の通りに願いを叶えてくださらないことがあります。けれども、長い目で見ると違った形ではあっても、神様の導きによりすべてはうまくいっているのです。実に不思議なことです。さらに、神様のみ前に正しく、まっとうに生きている人には、平安と言う祝福と恵みと言うみ守りが与えられます。誰も見ていなくても、誰にも評価されなくても、神様はしっかりとあなたを見て、知っていてくださいます。 メリークリスマス。

2019年11月

わたしの(正)義のもとなる神よ、わたしの叫びにこたえ/ 悩みの中にも憩いを与え、わたしを顧み、祈りを聞いてください。

旧約聖書 詩編4編1節

「令和」と言う新しい時代になりましたが、新しい時代になったと言っても今、私が置かれている状況が変わるわけではありません。悪い状況であれば、年号などいくら変わっても、幸運が転がり込んでくるとは思えません。いつの時代にも、どこの場所でも、どんな人にも悩みはあり、神様に助けを力の限り叫んでいます。祈りとはそれほど切羽詰まったものでもあるのです。「困った時の神頼み」は決して悪くありません。どうにもならず、最後に神様に藁にもすがる思いで頼ることも人にはあるのです。大切なことは、祈ること。祈り続けることです。失望し、あきらめてしまうことが、一番悲しいことなのです。どれほどの苦しみの中にいても、信頼できる存在がある人は幸いです。

『神は現世におけるいろいろな心配事の償いとして、われわれに希望と睡眠を与えた。』

ヴォルテール(17世紀のフランス文学者、哲学者、歴史家)

2019年10月

主よ、わたしの敵はいかに多いこと/ わたしに逆らって立つ者はおびただしいわたしについて多くの人は言う/ 「神の助けはお前にはない」としかし、主はわたしを囲む盾 / わたしの栄え、わたしを高く上げてくださる

旧約聖書 詩編第3編1節~3節

 「四面楚歌(しめんそか)」と言う言葉があります。紀元前202年、中国の垓下(がいか)と言う場所で戦が起こります。「(そ)」軍が圧倒的な数で勝る「漢(かん)」軍によって四方を囲まれたとき、漢軍は「」の国を歌い始めました。これを聞いた「」の項羽と言う武将は、自軍がすでに降伏したことを悟ったという「故事」に由来し、「敵に囲まれて孤立し、助けがないこと」「周囲の者が反対者ばかりであること」を意味する言葉となりました。まさにこの詩編の状況ですし、私たちもそんな気持ちになることがあります。

 しかし、3000年前にこの歌を歌ったダビデ王は、自分の力だけでは何ともできないからこそ、神様に希望を見出し、祈ったのです。神様にすべてをお任せしたのです。つらいことや苦しいことを神様にお献げすることも私たちには許されているのです。

2019年9月

「神に従う者の道は神に守られ、神に逆らう者の道は滅びに至る」

詩編1編7節

 先日、あおり運転で迷惑行為を行った容疑者が逮捕されたニュースが報道されました。自分が捕まらないように自動車会社の借りた車を使っていたようですが、多くの車がドライブレコーダーで録画している時代ですから犯行がわからないはずはありません。今日、神様、お天道様でなくても、録画カメラがちゃんと見ているのですから、悪いことをしてもすぐに明らかにされてしまいます。

 悪いことをすると自分自身が滅んでしまうことは、昔から変わりません。幸いな人は、神様と言う心の安全装置があるので、自分自身を悪の道から守ることができるのです。神様が共にいてくだされば、どんな道でもすこやかに行くことができるのです。

2019年8月

「幸せな人、それは神に逆らう者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者とともに座らない人」


詩編1編1節

聖書はたくさんの書物から成り立っています。そして、その中に150編からなる詩集として「詩編」があります。作者は紀元前1000年頃に活躍したイスラエル王国の英雄ダビデ王です。しかし、ダビデ王の作品は半分ぐらいで、残りは作者不明です。むしろ、ダビデ王の名前を借りて世の人々に思いを詩に託して伝えた人々だと言えます。

 今、あなたは幸せを感じられていますか?幸福とは何でしょうか、どこにそれはあるのでしょうか。いつの時代にも人々は幸せを追い求めています。そんな私たちに詩編の一番初めに「幸いな人」とはどんな人なのか、と言うことについて歌っています。日本の憲法の13条には「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」とあり、すべての国民の権利として「自由及び幸福追求」が認められています。この国では「みんな幸せになっていいんだよ」と言う権利が保障されていると言うことであり、誰一人として不幸は仕方がない、あきらめなさいと言うことではないのです。そして、そのような人間の幸福の権利を守るため、私たち一人ひとりは何ができるのでしょうか。それは大きなことでも、たくさんのことでもありません。それたった一つ、自分の身を悪から遠ざけることです。それはすなわち、正しい神様の中にいつもいる幸せのことなのです。