2020年8月より一年間(12編)の特集として、「聖書を理解するための基本用語」を2021年7月まで月に1編ずつ掲載して参りました。今回のHP掲載に際しましては、日経BP編集部並びに執筆者の桃山学院大学准教授齋藤かおる様のご理解を得ることが出来ました事を感謝するとともに、今後の齋藤様のご活躍を心よりお祈り申し上げます。
2021年7月(編集担当者)

預言者(よげんしゃ)

預言とは、未来を予測する予言ではなくて、神の言葉を預かること。そして、預言者とは、世俗の指導者や人々が神の意思に背く行動をとるとき、神の意思と戒めの言葉を神から預かって人々に伝える者のことである。イスラエル(ユダヤの民)のエジプト脱出とシナイ半島での40年の彷徨(ほうこう)を率いたイスラエルの偉大な宗教的指導者モーセは、ユダヤ教・キリスト教においてはもちろん、イスラム教においても最も重要な預言者の一人に数えられる。
 預言者は、基本的に、自己の意志により預言者になるのではなく、神の召命を受けて神の意思を人々に告げ知らせる。ただし、イスラエルのカナン定着後には、社会情勢を踏まえ意図的に(人間の意志で)立つ預言者集団のようなものの形成もあった。
 預言者は、神を代弁するという役割の特質から必然的に、世俗的権力(政治)への批判者としての側面をも、次第に濃くしていった。また、旧約の文書名に名を残すエレミヤらのように、迫害や嘲笑の的になることも多かった。

日経おとなのOFF 2011年3月号掲載内容より【監修・執筆】桃山学院大学准教授 齋藤かおる様のご許可を頂き原文のまま掲載しております
(今回の掲載が最終回となります。ご訪問いただき有難うございました。)

ユダヤ教の律法(ゆだやきょうのりっぽう)

イエスが生きた紀元前後の時代、ユダヤ教社会は、神殿を拠点とし世俗権力とも繋がる祭司たちからなるサドカイ派や、律法の解釈と厳守を重視する律法学者たちからなるファリサイ派といった、富裕な宗教エリート層たちが主導権を争う中、共同体としての結束は形骸化していた。そして、貧困や病気などの理由で律法を守れぬ境遇にある人々は、「罪人」と蔑(さげす)まれていた。
 ユダヤ教の律法とは、いわゆるモーセ五書(旧約最初の5文書)のことで、法とか掟というよりも、広く深い意味での「教え」である。先祖たちの歩みに学ぶべきこと、神に対して誠実であるべきこと、隣人を愛し貧しい者や寄留者を保護するべきこと、7年目には畑を休閉地にし安息年にするべきことなど、その内容は、人道的で含蓄に富む。
 しかし、律法を生活の基本に捉えているはずの共同体の結束が、次第に形骸化してしまった。イエスが「人が律法のためにあるのではなく、律法が人のためにある」と主張したのは、律法と共同体の本来の姿を考えれば、当然である。

日経おとなのOFF 2011年3月号掲載内容より【監修・執筆】桃山学院大学准教授 齋藤かおる様のご許可を頂き原文のまま掲載しております

約束の地(やくそくのち)

聖書の中心的な舞台となっているのが、約束の地カナン(今のパレスチナ)である。
ノアの長男セムから数えて10代目の、イスラエルの父と敬われるアブラハム。彼がメソポタミアのウルからカナンへ向かう途中で住みついたハランの地で、神は、彼に啓示を授ける。「わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」と。そして、アブラハムがカナンに入ると、神は、彼の前に現れ「あなたの子孫にこの土地を与える」と語る。
ハランからカナンにかけては、肥沃な三日月地帯と呼ばれる地で、メソポタミアからエジプトや地中海へと抜ける交通の要衝でもある。従って、その地を巡る争いも不可避で、アブラハムの子孫たちは、辛酸をなめることになる。
しかし、アブラハムや、彼の時代のモーセや預言者たちを通し、神が繰り返しその地を示したことで、約束の地に対するイスラエルの思いは、確固たるものになってゆく。それが、今も続く中東問題の錯綜の要因ともなっている。

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ペリシテ人とサマリア人
(ぺりしてびととさまりあびと)

少年ダビィデが石つぶて1つで倒した巨人ゴリアテは、ペリシテ人。また、怪力サムソンが恋に落ち自らの秘密を告げてしまった運命の女デリラも、ペリシテ人。
ペリシテ人とは、紀元前13世紀末~同12世紀初めごろに地中海方面からカナン(今のパレスチナ)沿岸部に侵入・定着した、「海の民」と呼ばれる人々の一部で、優れた製鉄技術や彩色土器文化を持っていた。紀元前14世紀~同13世紀ころにカナンに定着したイスラエルにとり、ペリシテ人は、脅威でありつつも、農業や農具の製法を学ぶ必要から、頼らざるを得ぬ相手であった。なお、「ペリシテ」人という呼称は、パレスチナという地名の語源だが、ペリシテ人とパレスチナ人とは、基本的に無関係である。
新約の「善いサマリア人の譬(たと)え」で知られるサマリア人とは、紀元前8世紀に北王国イスラエルの首都サマリアがアッシリアの攻撃で陥落し、アッシリア人が入植した後、イスラエル人とアッシリア人の間に生まれた人々。ユダヤ教側から嫌悪されたのは、宗教混淆(こんこう)が生じたためである。

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聖人と殉教(せいじんとじゅんきょう)

聖人とは、キリストに学び倣(なら)う生き方を完全に実行する生涯を歩んだとして、崇敬(すうけい)の対象に列された人物のこと。
カトリックでは、教皇庁列聖省による厳密な調査が行われ、尊者、福者という段階を経て聖人への列聖が果たされる(プロテスタントの多くの派は、聖人崇敬を行わない)。
聖人には、それぞれ祝日が定められている。また、聖人は、その生涯に関連する職業の人々の守護神としても崇敬されている。例えば、聖アンナは主婦、聖ヨセフは大工、聖ルカは医師、聖セシリアは音楽家、聖カタリナは哲学者、聖ラウレンティウスは料理人、聖ルチアは視覚障がい者、聖ヒエロニムスは図書館員の守護聖人という具合である。
殉教とは、固く信仰に立つゆえに地上での命を失うこと。聖人の多くは、殉教者でもある。例えば、上述のラウレンティウスが料理人の守護聖人なのは、鉄格子上で火あぶりにされ殺されたからである。ちなみに、ラウレンティウスは、息をひきとる間際に「もう片面はよく焼けています。残りの面も焼いてお召し上がりください」と語ったという。

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贖罪と原罪(しょくざいとげんざい)

贖罪とは、マイナス要素への代価(犠牲)を払うこと。そして重要なことは、「誰が」「何のせいで」「誰に」「何のために」代価を払うのか、という構造である(齋藤さん)。
旧約では、人間が自らの不信仰や罪に対する神の怒りを鎮めるために、山羊などの動物を犠牲として献(ささ)げている。そこにあるのは、他者犠牲の構造。贖(あがな)う人間も贖われる神も、自らを損なうことはない。けれども新約では、神の子として生まれたイエスが、人間の不信仰や不誠実の贖いのために、十字架にかけられている。そこにあるのは、自己犠牲の構造。神が自らの代価を払うこと、すなわち神の愛により神の怒りが凌駕され、際限ない他者犠牲の構造に終止符が打たれ、救いの道が開かれているのである。
原罪とは、人間が遺伝的に悪の傾向性を持っているとする考え方。人間の弱さと神の恩寵(おんちょう)を語る上で好都合な、しかし生物学的要因と道徳的要因を繋ぐという非論理的なこの概念を、5世紀にアウグスティヌスが確立して以降、キリスト教文化圏は、延々この概念の影響下にある。

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三位一体(さんみいったい)

キリスト教人口は、全世界で21億7000万人にのぼり(『ブルタニカ国際年鑑』)、世界人口の約3分の1を占めている。従って、キリスト教は、信徒数の多さから言えば、世界最大の宗教という立場にある。キリスト教内には、3つの大きな流れがある。それは、ローマ・カトリック教会、11世紀にカトリックとの分離が決定的になった正教会(ギリシャ正教)、1517年にルターが始めた宗教改革の展開の中で形成されてきた諸派の総称としてのプロテスタント(抗議する者の意)である。カトリック教会の教皇は、使徒ペトロの後継者であり、教皇が首長を務めるヴァチカン市国は、教皇庁が統治する世界最小の主権国家である。正教会は、カトリックと同様、初期キリスト教の伝統を今日に繋いでいる。1054年の正教会とカトリックの分裂は、395年の帝政ローマ分裂以降の、教義の問題や組織運営の問題の錯綜の延長線上にある。プロテスタントには、ルター派(ルーテル教会)や聖公会(英国国教会)やバブテストなどがある。

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メシア=救世主

メシアとは、ヘブライ語で「油を注がれた者」という意味で、古代イスラエルでは、元々は主に王の呼称であった。それは、権威ある地位、特に王位につく者の頭に油を注ぎ聖別する(世俗性から清める)儀式を行ったからである。イスラエルは、サウルの跡を継ぎ王位についたダビィデの治世に国の基盤が整い、ダビィデの子ソロモンの治世にかけて繁栄の世を謳歌する。しかし、その後、国力が衰退しさまざまな苦難に翻弄されてゆく中、次第にダビィデのような王の再来を待ち望むようになる。そして、王国滅亡の経験を経て、宗教共同体(ユダヤ教団)としての結束が火急の課題となりゆく中、世俗的指導者の顔と宗教的指導者の顔を併せ持つ究極の王=救い主を待ち望むようになる。旧約では、預言者たちが、来るべきメシアについてさまざまに語っている。新約のイエスの誕生物語は、旧約の預言がイエスの誕生経緯において成就したこと(ベツレヘムでダビィデの血統として生まれることなど)を伝えている。「キリスト」は「メシア」に相当するギリシャ語である。

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神の国

神の国とは、旧約では、「万軍の主」であるイスラエルの神により現実の社会が支配されている在りようのことで、次第に終末論的なもの、すなわち終末(最後の審判のとき)に出現する、イスラエル民族を中心とした地上の王国を指すようになってゆく。新約では、いつか訪れる最後の審判と救済のときとして示されている場合もあれば、地上における教会の在りようとして示されている場合もあるし、人々の間に既に成立し始めている在りようとして示されている場合もある。どれが神の国という概念の正解なのかを問い詰めることは、適当ではない。と言うのも、唯一絶対の神を仰ぎつつ日々の生活を誠実に重ねてゆく立場の者たちに対しては、最終的な到達点が示されるのも、そこに到るまでの過程が示されるのも、当然のことだからである。また、損なわれていた自己のアイデンティティをイエスとの出会いの喜びにおいて取り戻した人々が、関係性としての「神の国」を既に生きているのも、確かなことだからである。

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神との契約

聖書に冠される「旧約」「新約」の「約」とは、契約の意である。神から恩寵を受ける代わりに、神に授けられた掟を守り、神への誠実な信仰に生きるという、ある種のギブ&テイクの関係が成立している。「対等ではあり得ない神と契約を結ぶという点に、神(永遠・絶対・自由)を問わずにいられない人間存在の本質が垣間見える」と齋藤さん。旧約では、イスラエル(ユダヤの民)を率いエジプトを脱出したモーセが、神と契約を結んで、十戒と掟を記した2枚の石版を授かる。それがユダヤ教の律法の基となる。その後、苦難の歴史に翻弄され続ける中、イスラエルは、「神との契約に不誠実に歩んでしまったせいではないか」と苦悶しつつ、預言者たちによるメシア(救い主)到来の預言に望みを抱くようになる。そして、新約。神の子として誕生したイエスが、自らの身にすべての人々の罪を負い十字架にかかることで、この世のすべての人々に救いをもたらす「新しい契約」が成立するに至る。キリスト教信仰の出発点である。

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愛=アガペー

キリスト教は、「愛(アガペー)の宗教」だと言われる。それは、何よりもイエスの十字架の死が、すべての人間に救いの道を開く、神の愛を示しているからである。また、聖書が伝えるイエスは、「隣人を自分のように愛しなさい」「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」「互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」「わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」と愛すべきことを繰り返し命じているからである。そして、その際に用いられている「愛」が、ストルゲー(肉親愛)やフィリア(友愛)やエロース(情愛)でなく、アガペー(聖愛)というギリシャ語だからである。良くも悪くもコントロールのきかない(人間サイズの)3つの愛を超え、イエスに倣(なら)いつつアガペーの愛に生きてゆくべきこと、そして、アガペーの愛のあるところには神がいること、それがキリスト教のメッセージである。ちなみに、英語のチャリティ(charity)は、アガペーのラテン語訳であるカリタスの意を継いでいる言葉である。

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