2021年5月30日 三位一体主日・聖霊降臨後第1主日(B年)

主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いが御心にかないますように

先週、政府は緊急事態宣言を来月20日まで再延長することを決定しました。3度目の宣言と再延長。長く制限された生活が続き、このコロナかと言う理解できない未曽有の災いを受け止められない方も少なくはありません。今まで科学万能だと確信し、目に見え、理解可能なことだけを真実だと思っていた人類に対して未知なる病原菌は、その自信を見事なまでに打ち崩してくれました。まだ人類が知らないものはあり、傲慢になっていた私たちにこの体験から謙虚さを学ぶことができます。

本日は「三位一体主日」です。キリスト教会の最も重要な教えでありながら、最も理解困難なものでもあります。4世紀の初期キリスト教の神学者アタナシオスはこう教えています。「公会の信仰は次の通りである。すなわち、私たちは三位一体の唯一の神、唯一である三位一体の神を、位格を混同することなく、本質を分けることなく礼拝する」(日本聖公会祈祷書「アタナシオ信経」)

キリスト教会が2000年以上も信じ、守り続けてきた神様とは、天地を創られた父なる神様、イエス・キリストと言うみ子なる神様、そして、聖霊降臨日にイエス様の弟子たちに注がれた聖霊なる神様。この父と子と聖霊なる神様は唯一の神様であるという信仰です。世界中にいろいろな教派がありますが、正統なキリスト教会と異端との違いはこの「三位一体の神様」を信じているかどうかで分かれます。

「三位一体」と言う言葉は聖書には記されていません。この言葉は初期キリスト教会が作り出した神学用語だからです。イエス様の後の時代、弟子たちはキリスト教会を立ち上げましたが、時間の経過と共に大きな問題が発生します。イエス様にお会いしたことのない人々にどのようにイエス様の働きを伝えていくことができるのかと言うことでした。そして、そのためにイエス様の伝記、つまり、福音書が記されていくのですが、その時に教会は、信仰の対処となる神様を明確にしなければならなくなります。そこで多くの神学者が集まって長い時間をかけてイエス様が語り、教えてくださった神様について議論をしました。その中である人たちは、神様は唯一だから父なる神様がイエス様に姿を変え、聖霊になられたと言い、また、ある人たちは3人の神様がおられるのだと主張するなど大混乱になりました。そこで325年、現在のトルコにあったニカイアの街でキリスト教会の全指導者が集まってキリスト教の信仰・教理を定める第1回目の会議が行われました。

礼拝の中で皆さんと一緒に唱える「ニケヤ信経」の基礎が決められました。つまり、毎回、礼拝の中で、出席者全員で言う「ニケヤ信経」は、私たちが何を信じているのか、どんな神様を信仰しているのかということを告白しているのです。そして、この告白文章ができるまで、多くの優秀な神学者が議論し、ときに彼らは異端されることもありました。

いわば、キリスト教会の歴史の中で、私たちが信じている神様とは、一体どんな方なのか?と言うことは絶えず問われ続けてきていることなのです。それは現在も変わりません。確かに「三位一体」論争は決着がつき、キリスト教会の信仰は確立していますが、この信仰に生きることが信仰者、クリスチャンとして常に問われています。「私は立派な信仰者にはなれません」と謙遜される方もおられますが、自分の力で立派なクリスチャンになるのではないのです。怒りや悲しみ、生きづらさを感じる私たちですが、神様が私を支え、励まし、背中を押してくださる、そんな強い頼りになる存在を私たちは信じているのです。

神様は、クリスチャンだけを愛されておられるわけではありません。クリスチャンと呼ばれている人たちは、自分が神様から愛されている存在であることを知っている人たちです。もちろん、ときどきそれが見えなくなるほどの暗い闇に包まれることがありますが、それでも神様は暗闇の中でさまよう人々を探してくださいます。だから、私たちはどんな困難の中にあっても、神様への信仰によって喜べる者でありたいと思います。

本日の福音書、ヨハネによる福音書3章には、神様がどれほど人々を愛しておられるのかが教えられていますので、最後にそのみ言葉に心を傾けたいと思います。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネによる福音書3章16節