2021年1月24日 顕現後第3主日

主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように アーメン

今月13日に出されました緊急事態宣言により当教会は礼拝を自粛し、信徒・関係者の皆様にはご自宅で礼拝を守っていただくようにお願いしています。また、教区のホームページの聖書日課や主日説教の動画もご活用くだされば、幸いです。ちなみに、本日の主日説教の動画は、小林尚明 神戸教区主教さんです。

今日の福音書は、マルコによる福音書1章14節から始まる物語で、イエス様が漁師のシモン・ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネの4人2組の兄弟に弟子になるように声をかけられたお話でした。当時、何かを学びたいと志した人は、師匠に弟子入りすることが一般的でした。ですから、師匠の方から「弟子になりなさい」と声をかけられることはとても珍しいことです。福音書には、その時の会話の詳細は書かれていませんが、イエス様から弟子になるようペテロとアンデレに声をかけられたとき、「二人はすぐに網を捨てて従った」とありますから、疑問や葛藤よりも、むしろ、自分が必要であると呼ばれることを待っていたのかもしれません。なぜならば、イエス様は人々に「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたからです。

神の国とは、死者の国と言う意味ではありませんし、この世の特定の場所でもありません。神様がおられる場所、つまり、神様の働きが行われるすべての場所を指しています。4人の兄弟はまさにその神様の働きの器となり、入口となるようにイエス様からスカウトされたのです。ユダヤの国の辺境の地ガリラヤ、ユダヤ人たちは首都エルサレムを誇りにし、地方を見下していました。特にガリラヤ地方は、国境でしたので、異なる神を信じる外国人もおり、宗教的にも重要とは思われていませんでした。そんな4人の青年たちにとって中央の政治や宗教の在り方に不満は当然あったでしょう。けれども、片田舎に住む無力な漁師に一体、何ができると言うのでしょう。自分たちは見捨てられ、苦しんでおり、そのような人を知っていました。神様の救いが必要であると日々、祈り求めていたことでしょう。「これではいけない」と言う気持ちが心の中にあったからこそ、イエス様と出会い、神様の救いの働きが始まることに喜び、自分たちも協力できることに命を懸けようと決心したのです。4人の青年はボーと生きていたわけではなく、神様の救いを待ちわびていたからこそ、イエス様の呼びかけにすぐに従うことができたのです。後に師であるイエス様と同じく弟子たちも信仰のゆえに苦難の道を歩むことになりますが、彼らはその先にある神の栄光、神の国を与えられた喜びに比べれば、この世の困難は取るに足らないものとなりました。なぜならば、神の国、それは神様が共におられることなのですから。そして、神様を信じるすべての人と神様は共にいて支え、励まし、強めてくださるのです。わたしたちはそのような信仰によって神の国を喜ぶことのできる者でありたいと思います。

最後に聖パウロは、本日の使徒書の中で、わたしたちはキリストの十字架の死によって神の国に属する者となったことを教えていますので、最後にそのみ言葉に心を傾けたいと思います。

「あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。」