2020年5月17日 復活節第6主日(A年)神戸昇天教会

主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いが御心にかないますように

先週の14日、政府は新型コロナウイルス感染症に関する緊急事態宣言について、兵庫県を含む7都道府県は継続する一方で、他の39の府県は、解除すると発表しました。この新型コロナウイルスの感染拡大は、今まで明らかではなかった日本の政府や社会の問題点を次々と表面化させていますが、その中でも「孤立感」の問題は深刻です。

新聞報道によりますと、4月、路上で倒れて亡くなっていた男性が新型コロナに感染していたことが分かりました。男性は倒れる直前、コンビニにふらついた様子で入店し、会計時にはカウンターにうずくまるような体勢でお金を支払ったものの、店員に胸の苦しみや体調不良を訴えることはなかったそうです。その後、「路上に人が倒れている」と通行人からの通報があり、警察が駆け付け、心肺蘇生など手を尽くしましたが息を吹き返すことはありませんでした。

この男性は一人暮らしで、3年前までは認知症の母親を介護していたそうです。ご近所付き合いはあいさつ程度で、町内会などにも入っていなかったそうです。

急に呼吸ができなくなり、保健所や病院に電話するもつながらず、かといってとっさに連絡をする家族も、友人もいない。一人暮らしの方にとっては想像するだけで痛ましく、言葉にしがたい不安を感じられていると思います。この男性の他にも、部屋に一人で倒れている状態で見つかり、その後のPCR検査で陽性と判定されるケースなどが、4月19日までに5都県で11件あったと報じられています。

本日の福音書は、ヨハネによる福音書に記されてある最後の晩餐の席でイエス様が弟子たちに言い残された言葉でした。

「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」

イエス様はこれから愛する弟子たちを残して十字架の上で死を迎えなければならない、そんな別れの席で弟子たちにイエス様とのつながり、「絆」を教えられました。古来、ぶどうの木は一房にたくさんの実をつけることから豊作の象徴とされ、また神の民イスラエルを表してきました。ですから、イエス様の言葉は、この時にはまだ理解できませんでしたが、天に昇られた後、弟子たちを強める大きな意味を持ちました。

中世ヨーロッパで大流行したペスト、黒死病は、新型コロナウイルス感染症とよく比較されますが、中世ヨーロッパの人々にとってペストで死ぬことは、死ぬこと以上の恐怖を意味していました。

フィリップ・アリエスという学者は、中世の人々は「死の作法」というものを守って死を迎えることを重要視していたと言っています。

中世の人々は、いよいよ死期が近づくと、先ず家族や友人などの親しい人々を枕下に呼び寄せてお別れを言います。それから教会の司祭が来て、病人の額に香油を塗る「終油」という儀式をし、最期の聖体拝領、聖別されたパンを口に入れてもらい陪餐にあずかるわけです。その後、イエス・キリストが再び、この世に来られるエルサレムの方向、つまり、東の方角に身体を向けてもらって死が訪れるのを待っていたそうです。これが死を迎える者の作法、死に方であり、これを守れば安らかに死んでゆけると思われていましたが、黒死病の場合、感染を恐れ、人々は逃げ出したので、病人は一人、孤独に死を迎えなければなりませんでした。

新型コロナウイルス感染症の場合でも隔離され、家族や親しい人々に見送られることなく、この世を去っていかなければなりません。今日、多くの感染者は、孤独と死の恐怖の中で過ごしているのです。

たくさんの人の中にいても「孤立」を感じることはありますし、周囲に誰もおらず一人で「孤独」を感じることもあります。「孤独」は周囲の人数の問題ですが、「孤立」は誰とも関係のない状態を意味します。つまり、イエス様の言われている「絆」は「孤立」の反対である状態であり、例え一人ぼっちでもイエス様と結びついているなら「孤独」ではない、むしろ、神様がいつも守り、支えてくださり、豊かな信仰を実らせることができると教えられているのです。

現在、多くの方々は、ご自分の場所で信仰を守られておられます。教会で祈り、喜びを分かち合うことができない日々が続いていますが、大切なことは、それでも私たち神様の民である教会は壊されることはない、場所は離れてはいても神様への信仰を通してつながっているということを覚えていていただきたいと願います。私たちはこの困難の時を神様への信仰によって耐え、信仰の喜びに生きる者でありたいと思います。

最後に、本日の使徒言行録の中で、聖パウロはギリシャの人々に向かい神様は遠くにおられる方ではなく、すぐ近くにおられる方であると力強く語っていますので、最後にそのみ言葉に心を傾けたいと思います。

「彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。