2020年3月15日 大斎節第3主日 神戸昇天教会

主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いが御心にかないますように

新型コロナウイルスの蔓延により、3月10日付で主教様から教書が出され、神戸伝道区の教会は今週と来週の2回、主日礼拝を自粛することとなりました。このようなことはかつてあったと言うことは聞いたことがありませんので、歴史的な大きな、そして危機的な状況であると言うことであろうと言うことです。何人かの方からは「教会は礼拝がお休みになるのですか?」と聞かれましたが、「礼拝はお休みしません。日曜日には、信徒の民さんはご自宅で祈りをささげてください。聖餐式はできませんが、教会でも牧師はお祈りをいたします。」と申し上げています。人々が教会に集まり、共にみ言葉を聞き、イエス様の体と血にあずかる聖餐式ができないことが、これほどまでにつらいと言うことを感じたことはありません。また、その一方でクリスチャンとして、牧師として、司祭として当たり前のように聖餐にあずかってきたことのありがたさを痛感しています。ですから、この時、聖餐を受けられないことを心に深く刻み、次に聖餐を受けられるとき、心から喜んで、聖餐を受けられることの恵みをしっかりと感じられるようにしたいものです。

本日の福音書には、サマリアの街でイエス様と出会った一人の女性の物語が記されてあります。

サマリアと言う町は、紀元前9世紀前半まで北イスラエル王国の首都として栄えた町ですが、紀元前721年にアッシリア帝国に滅ぼされ、その後、政策として異民族をサマリアに移住させたため、イスラエル民族との間に混血化が進み、エルサレムのユダヤ人たちからは軽蔑の対象とされました。ここから元々は同じアブラハムの子孫であったサマリア人とユダヤ人は断絶し、敵対するようになりました。そんな関係にあったサマリアの街にユダヤ人のイエス様がやって来て名もない一人の女性に声をかけられました。しかも、この女性は不幸な過去を背負い、今なお人々から後ろ指をさされていた女性でした。彼女は水汲みに来るにはふさわしくない正午と言う時間帯に井戸にやって来ましたが、その理由はイエス様が言われた「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。」と言う彼女の生活環境にあったと思われます。

この女性とイエス様との間には、宗教的、人種的、道徳的、性別の壁がありましたが、イエス様はそれらの壁を越え、彼女が求めていた、飢え渇く真の命の水をお与えになったのです。そして、命の水を受けたこの女性は、自分を嫌っていた人々に向けて、この事実を証ししました。

16世紀、ドイツの南部にあるシュヴェービッシュ・ハルの街でマルティン・ルターが提唱した宗教改革を積極的に指導したヨハネス・ブレンツと言う神学者がしました。彼は市当局から聖ミカエル大聖堂の説教者に指名されましたが、宗教改革の混乱が続く教会の礼拝には、街のほとんどのクリスチャンたちは出席しませんでした。大きな礼拝堂にポツポツといる聴衆を前に彼は説教をしたときに、彼の同僚は「私なら、そんな少ない人たちのために講壇になんか決して上がらない」と言いました。そのとき彼は「教会は生命の水がコンコンと湧き出る泉である。その泉からたくさんの人が汲み取ろうが、少しの人が汲み取ろうが、そんなことは問題ではない。大切なことは生命の泉に渇いて集まって来る人々のために、その多少にかかわらず、神の水を絶えず湧き出させなくてはならない」と答えたそうです。

福音書の物語の中で、信仰者が礼拝にやって来る聖所がユダヤ人とサマリア人では異なっていることを指摘したサマリアの女性にイエス様は「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。」と言われています。神様は場所にこだわる方ではなく、礼拝する人に目を注いでおられることを教えられています。つまり、例えどこであっても、どんな人であっても、神様に心から感謝と賛美をささげることを願う人々を神様は喜ばれることをイエス様は教えておられるのです。

聖餐式が行えないこのとき、それを私たちは信仰の成長のための試練と受け止めなければなりません。この困難に負けることなく、この困難によってさらに信仰を深め、神様への感謝と賛美を強めるためのひと時として大斎節に相応しい日々を過ごすことが大切です。困難な時であるからこそ、信仰によって私たちが支えられていることを確信することが、世の人々に信仰を証しする良い機会となるのです。私たちはどんな時にも神様への信仰によって、いつも喜ぶ者でありたいと思います。

聖パウロは本日の使徒書、ローマの信徒への手紙の中で、行いではなく信仰によって神様に受け入れられ、神様に希望を持っていることを証ししていますので、最後にそのみ言葉に心を傾けたいと思います。

「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」