2020年3月22日 大斎節節第4主日 神戸昇天教会

主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いが御心にかないますように

新型コロナウイルスの感染拡大は、今週も続いており、私たちの教会でも主日礼拝を各自のご家庭で守っておられることと存じます。

先週の19日に専門家会議が行われましたが、期待した「自粛解除」の言葉はなく、依然として注意喚起が求められました。さらに、大阪府知事からも「3連休中の移動の自粛のお願い」が発表されました。

教会の礼拝に出席できない、陪餐にあずかれないことは、わたしたちにとりましてこれほどまでに大きな痛みと悲しみであることを感じたことは今までになかったと多くの方が思われておられます。けれども、この危機にあって私たちは、聖餐の恵みをより深く感じていることに注意を向けたいと思います。ウイルスの流行と言う悪いことが、聖餐の恵みと言う神様の栄光を現わす良い機会となることを願います。

本日の福音書には、名もない一人の目の不自由な男性が、イエス様によって目が見えるようになったと言う奇跡物語が記されてありました。そして、そのときイエス様の弟子たちは目の不自由な人を指して質問しました。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」

因果応報。不幸は罪の結果であり、自己責任だという厳しい言葉です。世界保健機構(WHO)によりますとこのコロナウイルスの流行も「パンデミック(世界的大流行)」「人類の敵」と言われていますが、「災害」だ言う人もいます。そして、何かの災害のたびに誰かが「これは人類の罪の報いだ。神の裁きだ」と言います。もしどうだとするならば、失った命と生き残った命の違いはどこにあったのでしょうか?死んだ人は罪深く、生き残った者は罪が少なかったとか、亡くなった方々は私たちの罪を背負ったとでも言うのでしょうか。

ある若者は、子どもの時に体が弱く、何度も大病しました。しかし、その原因が両親の離婚にあると占い師に言われたそうです。彼は熱心なクリスチャンでしたが、同様に毎日、仏壇にも手を合わせていました。

先祖を大切にすることは良いことだと思いますが、両親の離婚によってもたらされる災いが、その子どもや孫にまで及ぶとすれば、彼にはまったく救いがない、暗闇の恐怖だけが彼を支配し続けていると言わざるをえません。そのように人を恐怖に陥れる信仰は、闇の中に悲しむ人を生み出すだけで、何の希望も与えてくれません。しかし、イエス様はそのようなことをきっぱりと否定されておられます。

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」障害を持った人々は家族や先祖の代わりに罰を受けなければならず、弱い者は、強い者の犠牲とならねばならないのでしょうか。イエス様は決してそのように言われませんでした。

高知の教会に知的障害を持った女性がいます。彼女は「さをり織り」と言う織物を通じてその才能を開花しています。彼女はブランドを持ち、英国のウインザー城で作品を展示・販売したこともありますし、大阪などでも自分の個展を開催しています。「さをり織り」の考案者の城みさをさんは「障がいは個性、障がいは才能」と言っている通り、障がいがあるがゆえに持つ彼女の感性は、健常者では決して考えられない程の見事な作品を紡ぎ出しています。それはまさに作品を通して神様が彼女を愛しているという「命の価値」を言い表しているように見えます。

本日の福音書の物語は、神様がイエス様を通して一人の病人の病気を癒したという奇跡だけではなく、彼の心に「救い」が与えられたという物語、悲しみの中にある人に「喜びの回復」をもたらした物語でした。私たちはそれを奇跡と呼びます。なぜなら、それは強い者だけのいる社会では到底ありえないことであり、社会では救われない闇の中に閉じ込められた人が、神様によって光の中に救い出された出来事だからです。そして、イエス様は私たちにもこの「救いの喜び」を与えてくださいました。なぜなら、私たちが信仰の喜びの中にある時、神様は私たちと共におられ、そこがこの世で神様の愛を顕わす教会、キリストの体である教会となるからです。教会は建物ではありません。神様に感謝と賛美をささげる一人ひとりがいるところ、それは地理的なものをはるかに越えて、神様の恵みのもとにあるすべての人のいる場所がまことの教会なのです。ですから祈る場所は違っていても、私たちは祈りによって一つなのです。つまり、皆さんの祈りは教会の祈りとなるのです。

コロナウイルスと言う困難の中にある今こそ、私たちは信仰によってしっかりと立ち、一人ひとりが神様の栄光を現わす器として神様の愛のうちにあって、いつも信仰の喜びを持つ者でありたいと思います。

聖パウロは本日の使徒書エフェソの信徒への手紙で、イエス・キリストによって信仰の喜びの内にあるよう励ましておられますので、最後にそのみ言葉に心を傾けたいと思います。

「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて光となっています。光の子として歩みなさい。光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。」