2021年9月5日 聖霊降臨後第15主日(特定18)

主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように アーメン

コロナ禍でのパラリンピック開催について賛否両論、色々な意見があります。他方、先のオリンピック同様にパラリンピックでも一生懸命に競技する選手の姿は心が動かされます。特にそれぞれ障がいの程度や箇所が異なるにもかかわらず、同じ種目を競い合うと言うところに凄さを感じます。きっとどの選手もこの日のために毎日のつらいトレーニングを耐えてきたんだと想像すると「障がい者だからかわいそうだ」と言った憐れみが安っぽく思われてきます。確かに彼ら、彼女たちは身体的には不自由かもしれませんが、精神的にも、肉体的にも鍛え上げられた強さを持っている人として尊敬されるべき存在だと思います。

パラリンピックの父と呼ばれ、障がい者スポーツを推進したルードヴィヒ・グッドマン医師は、第2次世界大戦中、ユダヤ人迫害によりドイツから英国に亡命しました。彼がストークマンデビル病院に勤めている時、戦争によって下半身不随となった兵士たちが松葉杖でホッケーのような遊びをしていることからヒントを得、スポーツを通したリハビリを考案しました。ロンドンで行われたオリンピックに合わせて1948年7月28日に第1回ストークマンデビル大会が行われ、車椅子の16名の元兵士がアーチェリー競技を行いました。その後、大会は人数と規模が拡大し、パラリンピックに発展していきます。グッドマン医師は「失ったものを数えるな、残されたものを最大限に生かせ」と言い、それまで希望を持てなかった障がい者にスポーツを通して心も体も快復させて行ったのです。

本日の福音書はマルコによる福音書7章31節から37節までの、イエス様が行われた治癒奇跡物語でした。イエス様と弟子たち一行は、神様の国を人々に語りながら、色々な場所を旅しておられました。ガリラヤ湖近くにやって来られたある日、いつものように病人たちがイエス様に癒してもらおうとやってきました。その中に耳が聞こえず、口のきけない障がいを持った人がいました。イエス様は、治癒のためにその人を連れ出し、耳に指を差し入れ、またご自分の唾を付けた指をマヒした舌に触れられ、天を仰いで「エファタ」と言われると、耳が聞こえ、喋れるようになったと言うお話です。

「エファタ」とは、呪文やまじないの言葉ではなく、イエス様が日常使われていたアラム語で「開け」という意味です。そして、その言葉の通り、イエス様はこの人の耳と口を癒されましたが、治癒奇跡の重要な部分は、イエス様がこの人の心までも解放されたところにあります。例え、五体満足であっても私たちは、心の扉を閉めていないでしょうか?物語ではイエス様が障がい者を癒されたのですが、本当の癒しは身体以上にこの人の心が神様に向かって開かれたことにあります。神様はいつも私たちを守り、支え、励ましてくださいます。この神様に向かって私たちは心を開き、どんなときにも喜びを持つ者でありたいと思います。

最後に聖パウロは、本日の使徒書の中で、魂の救いのために神のみ言葉を受け入れることを薦めていますので、最後にそのみ言葉に心を傾けたいと思います。

「だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。」ヤコブの手紙1章21節