2020年4月26日 復活節第3主日(A年)神戸昇天教会

主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いが御心にかないますように

3月8日の主日聖餐式を最後に私たちの教会の礼拝は自粛となり、皆さんとともに祈り、賛美し、聖餐を分かち合うことができなくなっています。「こんなに長い間、礼拝に出席できない、聖餐にあずかれない、こんなことは今まで一度もなかった」とつらい気持ちを言われます。

1995年(平成7年)の阪神淡路大震災でも教会に来れば、礼拝は行われていましたので、第2次世界大戦で教会が閉鎖されて以来の出来事ではないかと推測します。戦時中、キリスト教は「敵国の宗教」とみなされていましたので、強制的に礼拝の中止や禁止が命じられていました。しかし、現在は、日本中、いや世界中で新型コロナウイルス感染症の拡大防止のための自粛ですので、震災や戦災とも異なり、戦争や震災を知っている方々にとっても初めての体験と言う感覚を強く思っておられるようです。まさに、世界中の人類が今までに経験したことのないほどの被害を及ぼしており、世界中の人が被災していると言うことです。

このような災害時、人々は人類に害を与える神を批判し、宗教を役に立たないかのように酷評します。また、ある宗教家たちは「災害は人類の罪の報い」と結論づけてしまいます。確かに多くの人は「なぜ、神様はこのような禍を私たちに与えられるのか」と宗教へ疑問を抱きます。個人的あるいは世界的にも不幸な出来事は起こりますし、神様を信じている人にも、信じていない人でも同様にそれは訪れるのです。しばしば我が身に降りかかった不幸によって神様が信じられなくなる、神様が見えなってしまうことがあります。

本日の福音書、ルカによる福音書24章13節からの福音書には、愛するイエス様が十字架につけられて殺され、生活の中心を失ってしまった2人の弟子の物語が記されてあります。イエス様はこの世を正し、真の神様を誰もが信仰することのできる理想郷を実現してくださる方だと信じ従ってきた弟子たちにとって、イエス様を失うことは、自分たちの夢、将来、これからのすべてが失われたと言うことでした。失望と絶望をかかえ、これからどうして良いのかわからず、途方に暮れてエマオと言う村に向かう道を歩いていました。そんな2人に復活されたイエス様が近づき、声をかけられたのです。しかし、2人には目がさえぎられて、その人がイエス様だとはわからなかったと記されています。そして、イエス様とは知らずにその次第を説明しています。彼らはイエス様がよみがえられると言われていたことをまったく忘れていたのです。

16世紀のルネッサンスの3代巨匠、ラファエロ、ダ・ヴィンチと並び称される天才芸術家として有名なミケランジェロ・ブオナローティは、彫刻では「ピエタ」「ダビデ像」、絵画ではバチカンのシスティーナ礼拝堂の天井に描かれた世界最大の壁画で知られています。

ある日、ミケランジェロが友人と道を歩いていると、突然、彼は立ち止まり、魔法をかけられたかのように動かず、食い入るようにじっと前を見つめていました。友人は彼にに何が起こったのかわからず、驚きましたが、彼の視線の方向を見ると道端に大きな花崗岩の塊がありました。そして、友人は彼にどうしたのかと聞くとミケランジェロは視線を外そうともせず、力強く言いました。「僕はこの石の中に天使が見える。それを僕はツチとノミで彫おこすことができる」と答えたそうです。

大芸術家ミケランジェロには、他の人にはただの石の塊に見えても、彼の目には、その中にある天使の姿を見出すことができたようです。

復活されたイエス様は暗い顔をしていた2人の弟子に近づき、声をかけ、一緒に歩かれました。最初、弟子たちはそれがイエス様であるとはわかりませんでしたが、後に聖書のみ言葉によって、イエス様がよみがえられたことがわかったとき、彼らはそれがイエス様であったと悟ったのです。そして、彼らは再びイエス様との日々を思い出し、心に熱い思いをよみがえらせたのです。

私たちは今、コロナウイルスによって心が暗くなっています。しかし、イエス様は、この2人の弟子たちと同じように私たちに近寄ってきてくださり、共に今日を寄り添ってくださっているのです。けれども時々、私たちは暗く、恐ろしい現実に、イエス様が見えなくなることがあります。どうしてよいかわからず、恐怖の中に立ちすくんでしまいます。けれども、私の側にはいつもイエス様がおられることを覚えてください。もしも、見失ってしまっても神様は傍らを離れたわけではないのです。ただ、私が見えないだけで、神様はずっと、どんな時にも共にいてくださっているのです。どんな苦難や困難の中にあっても私たちは神様への信仰によって失われることのない喜びを持つ者でありたいと思います。

最後に、本日の使徒言行録では、聖ペトロは、聖霊なる神様が、どんな時にも私たちとともにおられるとイエス様が約束してくださったことを教えていますので、最後にそのみ言葉に心を傾けたいと思います。

「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」