2020年4月12日 復活日(A年) 神戸昇天教会

主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いが御心にかないますように

「イースター、おめでとうございます」本来ですとこの言葉を教会の礼拝堂でたくさんの皆様とご挨拶させていただくところですが、残念ながら今週、それはかないませんでした。この復活日に、イエス様がご復活されたことを皆様方と共に喜ぶことができないことはとても苦しいことですが、だからと言って私たちの信仰の喜びが減ったり、失われたりすることはありません。なぜならば、イエス様のご復活を喜ぶ、その喜びは私たちが別々の場所にいても奪われることがないからです。

キリスト教が始まったのは、イエス・キリストがよみがえられたと言う現代でも受け入れがたい事実からでした。日本でも多くの人は思っています。「人間が復活するなんて非科学的で信じられない」と。しかし、その出来事があったからこそキリスト教会は始まり、迫害によりついえるかと思われたときでさえも、危機を乗り越えて2000年以上存続し、今日では世界人口の7割に当たる22.5億人の人々が信仰しています。なぜ、イエス様のご復活を信じる教会の人々は、数々の危機的状況を乗り越えることができたのでしょうか?

本日の福音書は、ヨハネによる福音書20章1節から10節でしたが、そこには不思議なことに、イエス様が登場してきません。イースターの主役であるイエス様が、復活日に読まれる福音書には書かれていないのです。しかも、最初にイエス様がお墓の中におられないという事実に遭遇したのは、男性の弟子ではない女性のマグダラのマリアであったのです。現代とは違う2000年前の男性優位のユダヤ人社会で、女性がイエス様の第1証言者となるなど想像できないことでした。それだけでも、イエス様のご復活の出来事が、初代教会や社会の流れによって書き換えられていないことを証明しています。しかし、それ以上に初代教会とって当時の社会の価値観に合わない、最も都合の悪いことが、福音書記者によって記され、今日まで教会の礼拝で堂々と読まれているのです。

それは一番弟子のシモン・ペトロと名もなき弟子の2人が、イエス様の遺体がないと言うマリアの言葉を確認するために葬られた洞穴に入ったときのことです。

「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。ヨハネ20章9節」

つまり、初代教会の指導者となった弟子は聖書が語り、イエス様ご自身も言われた復活について忘れていた、信じていなかったと言うことです。

外出自粛のためにご自宅でテレビを見て過ごされおられる方も多いかと思いますが、現在、NHKで放送されている朝ドラ「エール」は、作曲家の古山裕一先生が、愛妻の音(オト)と歩む人生が描かれています。先週放送された中でオトの幼少期に朝食で食前感謝の祈りをささげていました。主題歌と一緒に出演者などが映し出されますが、その中に「キリスト教考証 西原廉太」とあります。立教大学副学院長の西原先生です。教会で歌っていた聖歌は聖歌482番で、立教大学の女性聖歌隊員でしたが、設定では平安女学院のコンサートだそうです。さらにオトがオペラ歌手とであった教会は、明治村にある元聖ヨハネ教会の建物で撮影されたそうです。また、オトの家には聖公会のキリスト教用品がいくつもあるそうですから、それを探すのも一つの楽しみになると西原先生は教えてくださっています。しかし、そんな西原先生は、誰もが心待ちにしていたのですが、コロナウイルスの影響で中部教区の主教按手式が延期となった被選主教様です。西原先生は先週の朝ドラの一場面についてこういわれています。

実は、昨日の『エール』で、私が一番気に入っているのは、父、安隆が音を励ます場面での、安隆のこの言葉です。「人には、みんな役割がある。誰もが主役をやれるわけじゃない。だけど、主役だけでも、お芝居はできん。必ずそれを支える人がいるんだ」この言葉にこそ、私たちが最も伝えたいメッセージが込められているように思うのです。

先週、兵庫県にも緊急事態宣言が出され、いつ収束するかわからない感染拡大の恐怖と不安の中で私たちは過ごしています。しかし、私たちにできることは限られています。命の危険にさらされながらも懸命に戦っている人たちのために何ができるのでしょうか。外出しないようにしてじっと耐えることでしかできません。でも、私たちクリスチャンは神様にお祈りすることができます。最前線で未知の病と闘う人々のために祈りで支えることができます。不安の中にあるにもかかわらず、神様を信じられず、祈れない人に代わって神様の支えと守りを祈ることができるのです。歴史の中で教会は人々のために神様に祈りをささげ、私たちも祈られ、支えられて今日を迎えているのです。そして、そのような祈りを今、多くの人が求め、その願いに信仰によって応えるときなのです。

使徒言行録で聖ペトロは、例えどんなに弱い者であったとしても神様のみ前に祈る者の祈りを神様は、いつも聞いてくださることを教えていますので、最後にそのみ言葉に心を傾けたいと思います。

「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」