2020年3月29日 大斎節第5主日 神戸昇天教会

主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いが御心にかないますように

皆さんもご存知の通り、新型コロナウイルス感染症の影響で次々とイベントが延期・中止になっています。先週、ついにオリンピック・パラリンピックの開催まで延期となり、楽しみにしていた人々にとっては残念なことだと思います。海外では外出禁止令まで出されているようですから日本はまだ良い方なのかもしれません。けれども、日本は安全かと言えば、まったくそうではなく、ウイルス感染者は日増しに増加しており、大阪と兵庫の往来自粛も継続されています。しかも、兵庫県は感染者が日本の中でも上位にあり、注意警戒が強められています。しかし、一方で自粛疲れのせいか、若者たちは春休みと言うこともあり、街中に繰り出しており、危機意識が低いと指摘を受けています。もちろん、感染死亡率の高い高齢者や病者が最も心配されますが、春の陽気に誘われてしまう気持ちも理解できないわけではありません。

伝統のある宗教組織は同じことが言えるかもしれませんが、私たちの教会も高齢者の方が多く、信仰者の命を守るためにはどうしても警戒しなければなりません。しかし、一方で「いつもの礼拝をしたい」と願う皆さんの気持ちにお応えできない苦しみも同時に感じています。

本日の福音書、ヨハネによる福音書第11章では、ベタニアの村に住むマルタとマリア姉妹の兄弟ラザロをイエス様がよみがえらせた物語が記されてありました。ある日、イエス様のところに親しくしていたベタニアのマルタとマリアから使いの者が来て「姉妹の弟ラザロが病気です」と告げました。イエス様一行はベタニアの村に向かいますが、村に着いた時にはすでにラザロの葬儀は終わり、墓地に埋葬された後でした。悲しみのどん底にいたマルタ、マリア姉妹はイエス様に「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と強い口調で訴えました。しかし、イエス様はこの二人が言った同じ言葉に対してまったく異なる態度を取られています。姉のマルタには復活の命を説いておられますが、妹のマリアと他のユダヤ人には「心に憤りを覚えた」とあります。この「憤り」と言う言葉は、新約聖書では5回しか使われていませんが、その内4回はイエス様に用いられていますので、イエス様が憤られることは時々あったのかもしれません。この「憤り」と言う言葉は「馬が鼻を鳴らす」ことを表し、そこから「鼻息を荒くして言う・厳しく注意を促す」ことを意味するようになりました。イエス様は鼻息を荒くして何に怒っておられたのでしょうか。

ノルウェーには、屋根の上に石膏でできた羊の像が取り付けられている教会があるそうですが、それはある事故が原因でした。その教会を建築し始めたときのことです。そこは草むらだったので、時々羊の群れが通り過ぎて行くようなのどかな場所でした。教会は礼拝堂の柱と梁を建てたばかりで壁も屋根もありませんでした。そんなある日、一人の大工さんが足を滑らせて屋根の梁から地面に落ちてしまいました。落下した大工さんの周りに人々は集まってきましたが、なすすべもありません。「あの高さから落ちたら助かる見込みはない」と誰もが思いましたが、倒れている大工さんに声をかけ続けましたがピクリとも動きません。誰もがあきらめかけたそのとき、手足がピクピク動き出し、しばらくすると大工さんは目を開け、一人で立ち上がったのです。よく見ると大工さんの体の下に一匹の羊が死んでいました。ちょうど大工さんが落ちてきた場所の真下を羊の群れが通りかかっていたのです。幸運にも大工さんは羊の上に落ちて助かったのです。その後、大工さんは命を救ってくれた羊を記念して像を教会の屋根に飾らせてもらいました。そして、その羊を見た人は誰もが人々を救うために命を捨ててくださった神の子羊イエス・キリストを思うそうです。

ベタニアのマルタとマリアは、兄弟のラザロが亡くなったことを心から悲しむあまり、イエス様の到着が遅れたことを非難してしまいます。しかし、イエス様はそんなことに憤られたのではありません。イエス様がマルタに「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」と教えられた通り、死の先にある復活の命に希望を持っていなかったマリアとユダヤ人たちにイエス様は憤られたのです。

自分や愛する人びとの命が尽きることはとても悲しいことです。しかし、この世の命が失われることですべてが消滅するのなら、人の死は救いのない永遠の闇でしかありません。けれどもこの世の命が尽きても、永遠の命である神様と共にある復活の命に生まれ変われるなら、希望をもってこの世を生き抜くことができるのです。イエス様はその新しい命を私たちにお与えになるために十字架の上で死なれ、3日目に復活されたのです。私たちはイエス様のご復活をお祝いするイースターをそのような復活の希望と言う喜びを持って迎える者でありたいと思います。

聖パウロは本日の使徒書で、私たちに与えられている神様の賜物について教えていますので、最後にそのみ言葉に心を傾けたいと思います。

「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」