2020年9月

「言葉で人を傷つけず、その友に悪を行わず、 隣人をはずかしめない」   詩編15編3節

 今年5月、プロレスラーの女性が、出演したテレビ番組での言動をSNSで誹謗中傷され、自ら命を絶ってしまいました。最近、SNSに関するトラブルが急増し、専門家が動き出しています。古くは「村八分」「非国民」などと呼ばれて差別を受けてきた人々の歴史がありますが、現代では発言者の身元を明かさず、一方的に非難することができるため、さらなる恐怖が生み出されています。なぜ、そんなに人を傷つける言葉を投げつけるのかと言えば、「自分は正しいのだから悪者を罰しなければならない」と言う歪んだ正義が主張されています。しかし、その裏側には、社会や周囲に対する不満が存在しています。誰にも、どこにもぶつけられない怒りを、「正義」と言う大義に便乗して、まったく関係のない他人に容赦なくぶつける。それは現代人の心の闇なのです。しかし、聖書に示されているまことの人間の有り方とは、そのような独りよがりな正義が満ちた社会ではありません。間違いを赦せる余裕を心に持ち、誰かの命のために発言できる知恵と勇気のある社会、人とのつながりを大切にする関係なのです。

2020年8月

イエスは四十日間そこにとどまりサタンから誘惑を受けられた。
マルコによる福音書1章13節

 先日、若手俳優の方が自死されました。将来を期待されていただけに、早すぎた死に惜しまれる声が多くあがっています。彼は多くの人から愛され、たくさんの友人や信頼できる人がいたようです。しかし、誰一人彼の命を守り切れなかったことは、残念でしかたありません。なぜ、そんなことをしたのか?その理由は誰にもわかりませんが、もしかすると、ほんの一瞬、彼の中に魔が差して「もうダメだ」と言う気持ちが、彼の心をシャットダウンしてしまったのかもしれません。

「魔が差す」という言葉は、一説にはギリシャの言葉が由来であるとされています。ギリシャの言葉には「いい」ということを意味する「agathas」と言う言葉と、「否定」を意味する「ma」と言う言葉があり、この2つを合わせると「少しの時間だけ悪いことをしてしまう」といった意味の「magathasu」という言葉になるため、この言葉が由来となっているのではないかとの説があります。イエス・キリストでさえも悪魔から誘惑を受けたのですから、私たちが悪魔の誘惑にしばしば負けてしまうのも仕方がないことかもしれません。しかし、イエス様が悪魔に勝った最大の理由は、孤独ではなかったと言うことです。確かに自分の周りには誰もいない、けれども、誰かとつながっていることが大切なのです。イエス様は最強の神様とつながっていたので強い悪魔にも勝つことができたのです。そして、そんな神様とつながることは、弱い私でもできるのです。

2020年7月

 主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。
 箴言1章7節

 クリスチャンスクールと言われるキリスト教主義学校には「Timor Domini Principium Scientiae」と言う言葉が掲げられています。日本語で「主を畏れることは知恵の初め」と言い、旧約聖書の詩編と箴言にある言葉です。「主」とは神様のことで、「畏れる」とは「恐怖」ではなく、「尊ぶ」ことを意味します。つまり、神様を畏れ敬うことは、人間にとって学門・知識の第一歩である、と言うことなのです。それは「神をも畏れぬ非道な行為」と昔から言われる通り、人が神となって傍若無人な行為を戒める言葉でもあります。
 「知恵」と言う言葉は、「知る」と「恵み」と言う漢字で作られています。「恵み」とは、才能、特技、能力、得意など、神様が私たちに与えてくださっている良いもののことで、私たちがすでに持っている宝物のことです。それを見つけている人もいれば、まだ発見していない人もいます。しかし、私たちの中に神様は必ず素晴らしい宝物を与えてくださっているのです。そして、それを発見するために人は知ることが必要なのです。さらに、大切な誰かのために、この世の人々のために、その宝物の正しい使用方法を学ばなければなりません。私たちは幸せになるために生まれてきましたが、誰かを幸せにできる人は、自分自身も幸せになります。そのために神様を畏れ、己を知り、他者のために学ぶことが重要なのです。聖書はいつの時代にも私たちにとって大切なことを教えてくれています。

2020年6月

事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。
ヘブライ人への手紙 2章18節

キリスト教会のシンボルは十字架ですが、それはイエス・キリストがはりつけの刑に処されたことに由来しています。ローマ帝国の法律では、政治犯は十字架刑と言う最も重い処罰を受けるように定められており、イエス様は宗教的・政治的指導者たちから「嫉妬」されて反乱の首謀者として訴えられ、えん罪で処刑されてしまいました。その時、イエス様を慕っていた弟子たちは、捕まるのが怖くて逃げ去り、好意を寄せていた人たちは権力者を恐れてしまいました。孤独、屈辱、罵声、ムチ打ち、精神的・肉体的な苦痛が骨の中まで突き刺さるほどの苦しみの中に落とされたのです。神のみ子がなぜ、それほどまでに苦しむ必要があったのでしょうか?救い主(メシア)は、人が受ける痛みと苦しみを担うことが必要であったからです。イエス様は痛みを知っているからこそ、人の痛みがわかり、苦しまれたからこそ、人の苦しみを自分のものとして共に十字架を背負うことができるのです。  避けることができない困難や苦難が私たちを襲ってきても、共に苦しみを担ってくれる方があることは勇気づけられることです。だって、神様が共におられるのですから。

2020年5月

 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
コリントの信徒への手紙Ⅰ 10章13節

 新型コロナウイルス感染症の影響で多くの人が苦しんでおられます。亡くなった方々、病のうちにある方々、ウイルスと戦う医療関係者の方々、その他にも教育(子育て)や経済的にも苦しまれておられる方が多くおられます。このような状況はまさに人類に課せられたつらい試練以上とも思える苦しみです。けれども、人類は歴史上、その存在を揺るがされるような危機に幾度となく遭遇してきましたが、そのたびに乗り越え、二度と繰り返さないために進化してきました。今回も神様はそのような逃れの道を用意してくださっておられることを信じます。一日でも早く終息の日を迎えることができるようにお祈りいたします。

2020年4月

主の目は人々の上に注がれ その心を見通しておられる
詩編11篇5節

新型コロナウイルスによる感染拡大が続いており、WHOも「パンデミック(世界的大流行)」、「人類の敵」と言っています。私たちの生活の様々なところに悪影響が出ており、一日でも早く収束してほしいと願うばかりです。しかし、多くの人が苦しんでいるときに人の弱みに付け込む輩がいることは腹立たしい限りです。品切れの商品を高値で転売することも良くはありませんが、「無料マスク配布」と言って個人情報をだまし取ったり、「ウイルス除去」と偽って高額な工事費用を請求したり、厚生労働省などの役所の名前を使った詐欺が横行しています。けれども、神様はこの世の悪、人々を苦しめる者たちの悪を見過ごしにはされません。例えどんな権力者であってもその悪行は必ず、明らかにされることは、歴史を見ても明らかです。確かに悪はすぐには罰せられないかもしれません。悪人は悪を行っても捕まらず、平然と生きているように見えますが、すべてを見通しておられる神様は見逃すことはないのです。それは悪い行いだけではなく、私たちの良い行いについても神様は、誰にも評価されなくても知っていてくださるということでもあるのです。

2020年3月

悪人はおごり高ぶって主を求めない 彼はただ「神はいない」と思っている
詩編10篇4節

新型コロナウイルスが猛威をふるっています。治療薬もない今の時点では、外出を控え、感染の可能性がある行動はしないことが望ましいと言われています。授業も休校となり、3月の卒業式も行えない学校もあるそうです。しかし、多くの人が不安に陥っている原因は、出口が見えないからです。毎日、感染者増加などの悪い情報しかなく、終わりがわからない現状では、ウソやデマが広がり、買い占めや便乗値上げが起こって情報化社会の弱点があらわになっています。科学万能だと信じている私たちは、このようなときに「未知なるもの」があることを思い知らされます。そのようなときには、神様に祈ることしかできません。人は無力だからこそ人は祈るのです。私たちは善人ではないかもしれないけれども、神様を信じたくないほどの悪人でもありません。だから、祈ること、祈る続けることは、私たちに残された最後の希望なのです。どんな時にも希望を持つことのできる人は幸いな人です。1日でも早くウイルスの流行が終息することをお祈りいたします。

2020年2月

神は悲しむ人をかえりみ、その嘆きを心にとめ 苦しむ人の叫びを拒まれない 詩編9篇12節

 「人生は不条理でできている」そう思ったことはありませんか?職場や学校でのいじめ、幼い子どもや高齢者への虐待は、「本人のため」と言いながら、加害者の溢れ出るストレスのはけ口として行われています。そして、その理由もまた他者から被害を受けたと訴えていることを考えると歪んだ現代社会の問題が根深く関係しているように見えます。経済大国では、どこの国でも行き場のない怒りが町には溢れ、人々は怒りをぶちまけるために、誰か失敗しないか、どこかに落ち度はないかと目を光らせています。もしも、あなたの中に怒りがあり、不条理な世の中に嘆いているのであるのなら、その思いのたけを神様に思いっきり叫んでください。「バカヤロー!」と神様にグチってもよいのです。神様はそんなあなたの思いをちゃんと受け止めてくださいます。そして、もちろん、神様は年中無休、無料です。                    

2020年1月

あなたの指の業の大空を仰ぎ あなたがちりばめた月と星を眺めて思う 人とは何者か、なぜ、これにみ心を留められるのか なぜ、人の子をかえりみられるのか 詩編8編3・4節

明けましておめでとうございます。 富士山ではなくても、六甲山から見る初日の出もまた素晴らしい景色ではないでしょうか。この世の中には「絶景」と呼ばれる場所が数多くあり、今日では、そこに行かなくてもDVDやインターネットで楽しむことができますし、VR(バーチャル・リアリティー)を使えば体験することさえ可能です。けれども、そんな絶景は誰が作ったのでしょうか?偶然できたとは思えませんし、もちろん、人工的に作り出すことは不可能です。  昔、ガリレオ・ガリレイの友人が部屋に飾られてある精密な天体模型を見て「これは君が作ったのかい?」と聞きました。ガリレオは「これは偶然、出来たと思うかい?」と言って神様が創られた宇宙について話をしたそうです。 朝日と夜空の星は、冬が一年でも最も美しく見ることができます。そして、それらを造られた方のことを思うとき、神秘的な大宇宙に、小さな自分の悩みなど取るに足りないことのように思えてきます。 今年、1年の神様のお恵みが、あなたに豊かにありますようにお祈りいたします。

2019年12月

主は、正しい人を平安をもって祝福し、恵みの盾で囲んでくださる。

旧約聖書 詩編4編12節

「キリスト教は、ご利益宗教ではありません。」とよく言われますが、その理由は、利益を与えてくれると期待して神様を拝むのではないと言うことです。つまり、「神様、どうか、私に○○を与えてください」とのお祈りがなくても、神様はちゃんとその人を見ておられますから、お祈り以上のお恵みが与えられるのです。しかし、ときに神様は自分の要求の通りに願いを叶えてくださらないことがあります。けれども、長い目で見ると違った形ではあっても、神様の導きによりすべてはうまくいっているのです。実に不思議なことです。さらに、神様のみ前に正しく、まっとうに生きている人には、平安と言う祝福と恵みと言うみ守りが与えられます。誰も見ていなくても、誰にも評価されなくても、神様はしっかりとあなたを見て、知っていてくださいます。 メリークリスマス。

2019年11月

わたしの(正)義のもとなる神よ、わたしの叫びにこたえ/ 悩みの中にも憩いを与え、わたしを顧み、祈りを聞いてください。

旧約聖書 詩編4編1節

「令和」と言う新しい時代になりましたが、新しい時代になったと言っても今、私が置かれている状況が変わるわけではありません。悪い状況であれば、年号などいくら変わっても、幸運が転がり込んでくるとは思えません。いつの時代にも、どこの場所でも、どんな人にも悩みはあり、神様に助けを力の限り叫んでいます。祈りとはそれほど切羽詰まったものでもあるのです。「困った時の神頼み」は決して悪くありません。どうにもならず、最後に神様に藁にもすがる思いで頼ることも人にはあるのです。大切なことは、祈ること。祈り続けることです。失望し、あきらめてしまうことが、一番悲しいことなのです。どれほどの苦しみの中にいても、信頼できる存在がある人は幸いです。

『神は現世におけるいろいろな心配事の償いとして、われわれに希望と睡眠を与えた。』

ヴォルテール(17世紀のフランス文学者、哲学者、歴史家)

2019年10月

主よ、わたしの敵はいかに多いこと/ わたしに逆らって立つ者はおびただしいわたしについて多くの人は言う/ 「神の助けはお前にはない」としかし、主はわたしを囲む盾 / わたしの栄え、わたしを高く上げてくださる

旧約聖書 詩編第3編1節~3節

 「四面楚歌(しめんそか)」と言う言葉があります。紀元前202年、中国の垓下(がいか)と言う場所で戦が起こります。「(そ)」軍が圧倒的な数で勝る「漢(かん)」軍によって四方を囲まれたとき、漢軍は「」の国を歌い始めました。これを聞いた「」の項羽と言う武将は、自軍がすでに降伏したことを悟ったという「故事」に由来し、「敵に囲まれて孤立し、助けがないこと」「周囲の者が反対者ばかりであること」を意味する言葉となりました。まさにこの詩編の状況ですし、私たちもそんな気持ちになることがあります。

 しかし、3000年前にこの歌を歌ったダビデ王は、自分の力だけでは何ともできないからこそ、神様に希望を見出し、祈ったのです。神様にすべてをお任せしたのです。つらいことや苦しいことを神様にお献げすることも私たちには許されているのです。

2019年9月

「神に従う者の道は神に守られ、神に逆らう者の道は滅びに至る」

詩編1編7節

 先日、あおり運転で迷惑行為を行った容疑者が逮捕されたニュースが報道されました。自分が捕まらないように自動車会社の借りた車を使っていたようですが、多くの車がドライブレコーダーで録画している時代ですから犯行がわからないはずはありません。今日、神様、お天道様でなくても、録画カメラがちゃんと見ているのですから、悪いことをしてもすぐに明らかにされてしまいます。

 悪いことをすると自分自身が滅んでしまうことは、昔から変わりません。幸いな人は、神様と言う心の安全装置があるので、自分自身を悪の道から守ることができるのです。神様が共にいてくだされば、どんな道でもすこやかに行くことができるのです。

2019年8月

「幸せな人、それは神に逆らう者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者とともに座らない人」


詩編1編1節

聖書はたくさんの書物から成り立っています。そして、その中に150編からなる詩集として「詩編」があります。作者は紀元前1000年頃に活躍したイスラエル王国の英雄ダビデ王です。しかし、ダビデ王の作品は半分ぐらいで、残りは作者不明です。むしろ、ダビデ王の名前を借りて世の人々に思いを詩に託して伝えた人々だと言えます。

 今、あなたは幸せを感じられていますか?幸福とは何でしょうか、どこにそれはあるのでしょうか。いつの時代にも人々は幸せを追い求めています。そんな私たちに詩編の一番初めに「幸いな人」とはどんな人なのか、と言うことについて歌っています。日本の憲法の13条には「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」とあり、すべての国民の権利として「自由及び幸福追求」が認められています。この国では「みんな幸せになっていいんだよ」と言う権利が保障されていると言うことであり、誰一人として不幸は仕方がない、あきらめなさいと言うことではないのです。そして、そのような人間の幸福の権利を守るため、私たち一人ひとりは何ができるのでしょうか。それは大きなことでも、たくさんのことでもありません。それたった一つ、自分の身を悪から遠ざけることです。それはすなわち、正しい神様の中にいつもいる幸せのことなのです。