2020年4月5日 復活前主日 神戸昇天教会

主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いが御心にかないますように

新型コロナウイルスの影響が続いています。残念ながら、4月も教会での礼拝と集会などのすべての活動が自粛となりました。従いまして、今年はイエス様のご復活をお祝いするイースターも、各自がご家庭でお祝いしていただかなくてはならなくなりました。イースターの日に共にご復活をお祝いすることができないことはとてもつらいことです。

皆さんもテレビや新聞で報道されている通り、兵庫県でも感染者の人数が増えておりますし、県知事も週末の外出の自粛を要請していますので、このような社会状況で礼拝を再開することはできないと、3月29日に行われました臨時の教会委員会でも4月中の礼拝・集会の自粛が決定しております。

また、先週はコメディアンの志村ケンさん(70歳)が、コロナウイルスで逝去されるというニュースは、多くの人に衝撃を与えました。さらに、その報道の中で、感染した患者さんには家族でさえ面会ができず、最後の看取りにも立ち会えず、亡くなってからも最後のお別れ、火葬にも立ち会えないという事実は、家族にとっても大きな悲しみになります。何よりも、一人で死を迎えなければならないという不安や恐怖を抱えたまま、孤独にこの世を去っていくことの無念さはどれほど大きなことであるでしょうか。誰でもそうですが、自分の最後を迎えるときには、愛する家族や親しい友人に惜しまれつつ、見送られたいと思っています。

本日の福音書は、いつもより長い聖書箇所でしたが、イエス様が十字架の上で孤独に死を迎えた物語でした。ユダヤ人の宗教的指導者であるサドカイ派の祭司長や長老、ファリサイ派などの律法学者たちは、いつもは神学的立場の違いにより対立していましたが、自分たちを批判し、民衆に評判の良いイエス様を妬み、抹殺することを計画します。そこでイエス様の弟子の一人のイスカリオテのユダを買収して裏切らせ、イエス様を捕えて最高法院で宗教裁判にかけて死刑の判決をくだしました。イエス様を裏切ってしまったユダは後悔し、銀貨を祭司長や長老たちサドカイ派の人々につき返しましたが、自分の犯した裏切りを帳消しにすることはできません。自責の念に駆られたユダは自殺の道を選びました。

一方、愛情込めて教え、育ててきた弟子の一人であるイスカリオテのユダに裏切られ、その他の11人の弟子たちにも逃げられ、ユダヤ教の宗教的指導者たちに捕えられたイエス様は、宗教裁判にかけられ、自分は神の子だと言ったという冒とく罪で死刑の有罪判決を受けます。

しかし、ローマ帝国の許可なく、罪人を処刑にできない指導者たちはローマ帝国の総督ポンテオ・ピラトを脅迫してイエス様をローマへの謀反、クーデターの首謀者として処刑することを認めさせました。

異邦人のローマの兵隊からはムチ打たれ、面白半分に侮辱されます。ほんの数日前にはエルサレムの町で棕櫚の葉を掲げ、「ホサナ、ホサナ」と歓喜の声で叫んでいた民衆からは罵詈雑言を浴びせられます。もちろん、そこには従ってきた弟子たちも一人もいません。誰一人としてイエス様を擁護する者もない、孤独な救い主がそこにおられました。

昼の12時ごろ、十字架の上でイエス様は「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。これは詩編22篇1節の言葉ですが、まさに十字架の上で孤独と絶望のうちに死を迎えようとしているイエス様の心情を現わしている言葉です。

イエス様は病人を癒し、飢えた人に食物与え、蔑まれている人に寄り添われました。人々を神様の下に導くために神の国の福音を語られましたが、その結果、宗教的指導者にうとまれ、育てた弟子に見捨てられ、ユダヤ人とローマ兵から罵倒され、父なる神様の沈黙の中で苦しまれました。それは最悪の状況でした。人として最もみじめで哀れな姿、誰もが忌み嫌う姿であったのです。なぜ、イエス様は人々と神様に見捨てられなければならなかったのでしょうか。

それはイエス様が、誰からも省みられないと孤独で絶望している私たちを神様のところに引き上げてくださるためだったのです。イエス様は神様と強く結びつくために最も低い私たちのところに来られたのです。しかも、そのためには、人間の罪、神様との絆を断ち切っている私たち人類のエゴ、業と言う罪が明らかにされなければならず、神様との関係修復のためには私たちが新しい命に生きることが必要だったのです。つまり、イエス様の受難と死は人の罪を明らかにし、それを滅ぼすことであり、イエス様のご復活は罪の赦しとして、神様が私たちに与えてくださった、神様と共に生きるという新しい命なのです。

苦しみと孤独の中にあったイエス様に思いを馳せ、離れていても共に信仰によって結びついていることを喜ぶ者でありたいと思います。

聖パウロは本日の使徒書で、救い主イエス様は、弱さを持つ私たちと共に生きるためにこの世に来られたことを教えていますので、最後にそのみ言葉に心を傾けたいと思います。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。